「チッ、止まらねぇ」

 

柄にもなく、尖ったセリフを呟いてしまった。

時刻は23時を回ったところ。

 

座り位置をずらし、背中を反るように伸びをすると、一人がけのソファがギジギジギジと歪な音を出した。「もうそろそろ寿命なのかもしれないなあ」と思いながら、ぼくはマグカップに注がれた白湯をすする。

 

つい1時間ほど前から読み始めた小説が面白すぎて、ページをめくる手を止められなかった。朝から歯医者と皮膚科をハシゴし、午後は衣装合わせと舞台観劇。忙しない1日だったから、眠くなってもいいはずなのに、いっこうに睡魔がやってこない。

 

「ああ、おもしろいぃ・・・、どうしよう」

 

大きく息を吐いてから、再び本に目を落とす。

言葉とは裏腹に、体は物語を欲しているようだった。

 

 

 

 

小説家を描いた小説「小説王」を読み終え、時計を見ると深夜1時をすぎていた。いつもは23時頃には寝ているぼくにとって、この数字はかなり久しぶりに見るものだった。

 

達成感と充実感が体からドボドボと垂れ流れていくのを感じながら、ぼくは布団に寝そべっていた。

 

後頭部のあたりがピクピクと動いているのがわかる。心臓のポンプに合わせて、太い動脈の中で血が踊っているのだ。これが、血が騒ぐ、というやつなのかもしれない。いや、ちがうか。

 

ぼくは静かに目を閉じて、再び小説世界へ戻ろうと試みた。

 

 

 

「生活のために書くようになったら小説家は終わりだ」

 

 

 

頭に浮かんだのは、物語の前半に出てきた言葉だった。よほど印象に残ったのだろう。でも、ぼくは小説家ではない。ただの読者だ。だから、なぜこの一文が頭に浮かんだのかは分からない。でも心に残ったのは間違いなくて、しばらくはそのことが頭の中をグルグルしていた。

 

 

 

小説家さんって、生活のために書いているのではないのだろうか・・・。

 

 

 

この小説を読み切った今、こんなことを思うのはおかしいのかもしれない。だって、その真意は、すでに書かれているし、ぼくも納得感を持ちながら読んだはずだった。なのに、どうしてこの一文が胸に響いたのだろう。

 

ここらで睡魔が襲ってくれれば、考えることを放棄してキレイさっぱり忘れることができたのかもしれない。でも、どういうわけか脳内はパッと冴えていた。ページをめくる手を止められなかったときと同じだ。体が考えることを欲しているようだった。

 

 

 

「生活のために演技するようになったら俳優は終わりだ」

 

 

 

気付けば、ぼくは自分の仕事を作中の一文にはめ込んでいた。すると、なにかイヤな感じがした。文章が急に距離を縮めてきたような感覚になったのだ。演出家にダメ出しを受けているような、そんなリアリティある言葉として身に迫ってくる。うん、なんか、いやだなあ。

 

なにがイヤなのか、なにに違和感を抱いているのか分からずに、ぼくは目を開けて真白で無機質な天井に向かって呟いてみた。

 

「生活のための演技」

 

声に出してみても不思議な響きが解消されることはなかった。

 

「生活のための演技って、なんだ?」

 

ポコポコと頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。ぼくはこれまで生活のために演技をしている自覚はなかった。

 

言葉にするのは恥ずかしいが、あえて書くなら「作品のため」に演じていたような気がする。役柄を演じることによって作品に奉仕するようなイメージだ。そして、今でもそんなことを思っている。

 

でも、考えてみると自分は演技をした対価として「お金」をいただいているし、そのおかげで生活ができている。だから、演技は生活のためにしている、とも言えるのではないだろうか・・・。

 

浮かんだ疑問をツンツンとつつくようにして考えるが、うまく答えが見つからない。

 

ぼくは枕元に置かれた「小説王」を再び開いてみる。

そこには、こんな一文があった。

 

 

 

「書くために生きることを誓った小説家に、生きるために書くときがやって来るのだ」

 

 

 

そうか。これは、ある種の戒めなのかもしれない!

いつの間にか目的がすり替わり、それに気付いているのに目を逸らしてしまう人間への警鐘でもある。それは物語の登場人物たちに限った話ではない。

 

ぼくもそうだ。

 

正直に自分の心と向き合うと、仕事に慣れてきたせいか「作品のため」に演じていたはずが、「自分のため」に演じる瞬間もあったのだ。登場シーンやセリフの少なさに気持ちが萎えてしまうこともあった。

 

それだけではない。「お金のため」と考えたこともなかったとはいえない。自分にできることを、そつなく「こなす」こともあったはずだ。

 

おいおい。なにをカッコつけて「役柄を演じることによって作品に奉仕するようなイメージだ」などとホザいているのだ! ぼろだらけではないか! そりゃあ、この文章が響くわけだ!

 

(もちろん、全ての仕事に対して一生懸命に向き合ってるつもりだが、心の奥の奥を覗いてみると、そんな気持ちが0.1ミリくらいはありました)

 

でも、そう思うのは決して悪いことではなく、人間である以上当たり前なのかもしれない。常に120%の情熱を注ぎたいと思っていても、知らずのうちに費用対効果を考えるようになるし、そりゃあ気を抜いてしまうこともある。そうして次第に心の裡にあった本音から目を逸らすようになってしまうのだ。

 

この小説でも、まさにそんなことについて言及されている。

出版社の編集者として働く俊太郎は、同級生であり小説家の豊隆に向かって熱い思いをぶちまける。

 

 

 

「俺は本当にお前がすごい小説家になるって確信してる。だから豊隆、そのためには――」

 

 

 

・・・どうすりゃいいんだ、俊太郎。教えてくれ。ぼくは、俳優としてどうすればいい!

 

気付けば本を投げて、作中の人物に向かって叫んでいた。「小説王」を読んでいると、編集者と小説家の関係を「マネージャー」と「俳優」と置き換えたり、「演出家」と「俳優」と置き換えてしまい、現実と物語の境界線が曖昧になる瞬間が多々あるのだ。そして、青春時代に抱いていたような熱い気持ちを思い出し、ドーパミンが噴き出すような興奮を覚えてしまう。

 

ぼくも豊隆や俊太郎と同じように《“いま”を保留》しているのだ。

 

このままじゃダメだ。このままじゃダメだ。

逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ!

 

やっぱり睡魔は訪れず、考えれば考えるほど視界の輪郭はクッキリとする。

 

しかし、いまは夜。それも皆が寝静まった深夜なのだ。空は漆黒の色をさらに深め、どこからかコオロギがリリリリと鳴いているのが聞こえてくる。

 

ぼくは、どうしていいか分からなくなっていた。

そして「こうなったらヤケだ」と、投げた本をまた開いた。

 

 

 

 

結局、寝たのが何時になったのかは覚えていないが、翌朝、目はパンパンに腫れていた。枕元には本がなく、布団の中で文庫本は温かくなっていた。

 

本を片手にリビングに出ると、窓から差し込む秋晴れの陽光が目に沁みた。

 

ボーッとする頭で思う。

 

小説「小説王」に出てくる人たちは、みんな熱い。

 

そのヤケドしそうな熱さに触れているのが心地よかった。ちなみに豊隆や俊太郎の他にも、魅力的な人物はたくさん登場する。特に俳優の「綾乃」の存在は、同じ俳優として刺激的な人物だった。

 

彼女が、なぜ第一線で活躍できているのか。その理由を知ったときには、思わずドキッとしてしまった。自分は彼女のような姿勢で仕事に臨めているのだろうかと、襟を正されたような気持ちになった。

 

書き出したらキリがないが、とにかく彼ら、彼女らが、まるで友達のように思えてならなかったのだ。

 

だからなのか、この小説は「読んでいる」というよりも「聴いている」という感覚が強い。まるで自分も見えない登場人物の一人になった心持ちで、彼らの声に耳を傾けていた。

 

改めて思う。

 

ああ、おもしろかったなぁ。

 

外からは元気な小学生たちの登校する声が聞こえてきた。