もてはやされるのは「神様」だけなのか?
寺の子供として生まれ、その事だけでいじめられてきたワタシにとっては、どうしてもそれが解せないでいました。

神仏、生き死にというどちらも生命が辿る道筋の上では同じで、歴史的でもあり伝統の担い手であるはずなのに、神事である「祭」には多くの人間が喜んで参加するのに、仏事には否定的な感じを受けます。子供が生まれた時の行事は一所懸命やるけど、おじいちゃんとおばあちゃんの◯回忌は面倒たがらやらない、なんていう話は良く聞きます。

神仏習合という思想が、永きに渡る日本の根底思想を形成してきたにもかかわらず、明治において廃仏棄釈によって神と仏は分離されたといっても過言ではありません。ワタシは、浅はかな知識しか持たないので歴史的事実について批判するつもりは毛頭ありませんが、そのシワ寄せを受けた者の意見は語らせていただきたいと思います。
その観点で見ると、今流行りのパワースポット巡りだの、ご利益をいただくためのお祈りだのは、いいとこ取りをしたい人間のエゴにしか見えないのです。
古来、神と仏は一緒くたのものであったのです。
神は生み出す、仏は死にゆく、一つの生命が辿る同一線上の時間軸での存在なのです。三次元の物質世界では生まれた存在は必ず滅びます。滅びてまた生まれます。この法則に変わりはありません、ただその物質にエネルギー体としてのワタシ達がのっかるだけです。
神は誕生を喜びますが、当然ながらそこには同時に死がつきまといます。そして死を「穢れ(けがれ)」として扱い忌み嫌うようになりました。実際問題として、死後の人間は皮膚表面の善玉菌が死に絶えるので悪玉菌がはびこるらしいですが。その穢れを、神の領域まで穢さぬ役目を担うのが「坊主」としての役割だと思っています。直接的に祓う役割を担っていたのです。ところが、その役割を傍から見ていた知識のない者が「坊主は穢れている」と勘違いしたのではないかと思います。その勘違いが、年代を超えてワタシの周囲に悪影響を及ぼしたのだと思うようになりました。
結果として、ワタシも兄も学校ではイジメられやすい状況にあったのです。
これが、ワタシ達兄弟だけでなく親父さんすら受けてきたシワ寄せだと思っています。全く理由も分からず坊主というだけのいわれのないイジメ、まさに生まれてスイマセン状態でした。

恥ずかしながら、ワタシも「神社と寺は別」という明治の教育に毒されていました。神社、神主は生命をお祝いし喜び讃える職業だけと、坊主は、他人の死によって生活している恥ずかしい職業だと思っていました。しかし、あらゆる土地で神社と寺は持ちつ持たれつの関係があり、お互いにお参りし合う存在であることを知った時、ワタシの中で変化が起きました。そう、仕事として見てもワタシは恥ずかしくない仕事をしている!ということを自覚したのです。

世界を清浄化しているのは坊主だ。

実家=寺で生活していた18年間は、恥ずかしい職業によって生かされている思っていました。だからこそ高校卒業と同時に、誰も自分の過去を知らない土地で生きる覚悟を決めて実家を捨てる気持ちで離れたのです。


映画「天気の子」で主人公の穂高くんは、何の理由があって実家を捨てたのか触れられていませんでした。光を追い求めてここではない何処かへ行きたい彼の姿は、ワタシにとって非常に共感を覚える存在でした。晴天だけがもてはやされる現代で、雨も必要だということを暗に語るこの映画は、実は神様との関係でいいとこ取りをしたいヒトに対して、生につきまとう死についても考えを巡らせて欲しい、という監督の願いが含まれているのを感じるのはワタシだけでしょうか?

あ、でも鳥居のそばにキュウリやナスで作った精霊馬が置いてあったり、お盆の迎え火の風習なんかを描いたりして語ってたね。
もしかしたら、神仏習合を上手く物語として描けるのは、新海監督だけなのかも。(これ、上から目線でしょうか?)