とある休日、代々木公園に僕はいた。独りでだ。 妻と喧嘩をして家を飛び出したのだ。













その日はゆっくりと目覚めた。ブラインドから射し込む日差しは柔らかく、心地の良い陽気であった。 坂口憲二似の目元をこすりながら、これは家族でのお出掛け日和だと思った。










『たまには広い公園に連れていってあげようか。シャボン玉持って代々木公園とかさ』



妻の真由美に提案した。ついでに原宿でちょっとした買い物も出来るだろうし、この日はタイフェスも開催されており、アジア料理が好きな真由美も喜ぶに違いない。子供達を軸にした提案だったが、心の中では常に妻を想っているのだ。









『うん、行こうか』


妻が承諾してくれたので子供達に伝える。「やったー」とアホ面をさらして喜ぶ子供達。バンザイした手が短い。かわいいものだと思った。















いつもの陸サーファースタイルに身を包み、さあ出ようかとなった時、妻の浮かない表情が目に付いた。具合でも悪いのかと尋ねると







『それもちょっとあるんだけどね、今日は実家の手伝い仕事があるから、やっぱりサッと行ける近所の公園がいいかな』



とこう答えるのだ。僕は頭の中にハエが入った思いがした。











具合が悪いのは仕方がない。仕事も大切だ。しかしだ。それは子供達に伝えてしまう前に言わなければならない事ではないのか。 




「いっぱい広い公園」という魔法の言葉に子供達は浮かれている。半端に一度与えて奪うのは残酷な鬼の所業だ。そう伝えると妻はカワウソ面をゆがめて






『遠出するなら前の日に言って欲しかった』


とそう言った。 遠出と。原宿に行くのは遠出なんだと。












大好きなディズニーランドに行く際、このカワウソは一度も『遠出』などと言った事はない。 なんなら近々福井県の恐竜の里なる所に子供達を連れて行きたがっている。


新婚旅行だって僕が強く望んだ岐阜の白川郷を却下してイタリアへ行った。そんな遠洋カワウソがどの面を下げて原宿・代々木公園を『遠出』と言えるのか。










これらの言葉を15秒でまくし立てると僕は家を飛び出した。悔しかった。広大な公園でシャボン玉を追いかける子供達のアホ面が見たかった。タイフェスで赤くてパクチー入ってるスープ的なものとか飲みたかった。H&Mで薄いカットソー的なものを買ってあげたかった。















「絶対に独り代々木公園を満喫してやる」


すれ違う犬を睨みつけながら僕は心に誓った。



















休日の代々木公園は人で溢れかえっていた。










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これはもうセントラルパークだ。木漏れ日具合も噴水も。沢山の外国人観光客の姿もセントラルパーク感の強化に一役買っていた。














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セントラル代々木のお供は、よなよなビールとドライマンゴーだ。賢者のセレクトに目が潰れた読者も一人や二人ではあるまい。



途中のコンビニでこのセットを思い付いた時、頭に電流が走った。ファッション誌で休日の過ごし方を特集される有名なスタイリストの発想だ。

レジを打ってくれた中国人のお姉さんも、おそらく青山と赤坂の中間辺りで生まれ育った人間だと勘違いしたに違いない。福島の港町育ちのセンスだと誰が思うだろう。













ベンチに腰掛け、この勝組セットをあおりながら本を読む。








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使い込んだレザーのブックカバーの中身は











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二周目となる藝人春秋。










よなよなビールとドライマンゴーと藝人春秋。独りセントラルを満喫する三種の神器。












これで俺の完全勝利。  















のはずだった。


















ちょうどテリー伊藤さんの章を読んでいた時だ。隣のベンチに座るカップルに、二人の青年が話しかけてきた。


なんでも彼等は若手のお笑い芸人であり、これから公園内で漫才をするのに観客を集めているから観に来てくれないかとのことだった。カップルを誘い出した後、こちら側にも来そうな体勢である。











これは大変な事になった。











海よりも広い芸能界にこれから舟を出さんとする若き漫才師。その取り掛かりでもあろう路上ライブを前にして、まさに大海原の暴れん坊、言うなればお笑い界のシャチに遭遇してしまったのだから。











『あっ!!アルコ&ピースさん!! あの、、オンバト観てました。敗けた時のちょっと尖った雰囲気を残す敗者コメント勉強になりました!!』









そんなふうに恐縮してしまうに違いない。そうしたらこちらは何食わぬ顔で三千円ほど渡し、






「頑張って。これ打ち上げ代ね」





と、ギリ聞こえるくらいの声量でつぶやけば雰囲気はグンバツ。この行為が更に後輩に語り継がれ、そして僕は代々木の主になるのだ。













イメトレは完璧。


彼等が近付いてきた。


身構え、準備したセリフを反復する。


穴はない。


さあ、


伝説の始まりだ。




















『お兄さんもよければ来て下さい』

















世界が崩れ落ちた。









関西でいう先輩を指す意味合いの『お兄さん』ではない。休日のベンチに独り佇む中年を気遣ってのトーンであった。

気付かれる事を絶対的な前提としていた僕に、受身の準備など無かった。






「あいしっ」









無意識に僕は言った。



漏れたという表現の方が正確かもしれない。









僕は「あいしっ」と漏らしたのだ。


















呆然と固まる僕をよそに、向こうで漫才が始まった。




やけに声を張り上げる漫才だった。



よくウケていた。そのウケにつられて集客も増えていった。













代々木公園











近くて遠い、我が憧れのセントラル。












マンゴーを食い千切り、ぬるくなったビールを一気に飲み干した。




























帰ろう。




愛する家族が待つ高円寺へ。





帰ろう。




無意味に睨んでしまった老犬が暮らすあの街へ。












黄色い夕暮れを背に受け、僕は立ち上がった。






















帰り際、横切った時にはっきり聞き取れた若者のネタは、サンドウィッチマンの漫才のゴリゴリの完コピであった。