ここ10年ほど、僕は自分で髪を切っている。百均で買ったすきバサミと普通のハサミとで切っている。

もちろん後ろも自分で切る。指で髪を掴めば、なんとなくその長さを把握出来るまでになった。10年とはそうした年数だ。








決して美容院代をケチっているのではない。昨今の美容院が洒落過ぎており、またイケ過ぎている美容師さん達とまともにお話が出来ないのだ。

一時期のカリスマ美容師ブームから美容業界そのものは一段と華やかになった。小中高と糞芋グループ、ピラミッド最下層の泥の住人が気軽に足を踏み込み、軽口を叩ける場所ではないのである。







しかし自分ももう36歳。子供も2人いる。 『自分でチョキチョキ、上手に切れたよ~、ヤッピー!』もクソもない。そろそろ美容院くらい臆さずに行けるようにならないと。と思うに至り、意を決してサイトで当日空いている店舗を探してみた。








店を決めると、まず予約電話の高いハードルがあった。声のいい男性が出た。事務的ではあるが、最低限のカジュアルさも備えた完璧な対応に糞芋は一瞬で萎縮した。勇気を出して日時の指定をするも『もしかするとこの時間帯はカリスマ達の休憩時間ではないのか。唯一の安息の時をこの糞芋が潰してしまうのではないか』と思い、喉が潰れそうになる。







命を振り絞って担当者お任せで予約を完了した。5分前に着くように店へと赴き、おずおずと扉を開く。 小柄だけど目の大きな受付のお姉さんが出迎えてくれた。100%店長かオーナーに抱かれているだろう。 “おいおい100%は言い過ぎだぞ糞大福” と思われるかもしれないが、残念ながら100%抱かれているのだ。

割り切った性を知り尽くしたお姉さんに席に案内される頃にはもう汗が吹き出している。無理もない、丸腰で敵の本陣に踏み込んだのだ。店内に流れるジャンル不明の音楽がお経に聞こえ出し始めた頃、奴が姿を現した。








カリスマだ。チーフだか店長だか分かんないけど、とにかくカリスマだ。ヒゲを生やし、長髪を後ろでくくっている。民族衣装の様な服装だが、上に一枚きれいめなシャツを羽織っているので土臭くならず、サイジングも絶妙な上級者コーディネートだ。小1の時に学校でウンチをお漏らしした自分が話をしていい相手ではない。

おそらくカリスマに名乗られたが、強張った神経は記憶を拒否した。毛先を摘みながら『今日は~どおしましか?』と聞かれる。どおしましか。カリスマが噛んだのだ。なぜか僕は咄嗟に小さな咳をし、聞こえなかったフリをした。これは僕の人間的な敗北を決定づけた瞬間だった。カリスマは何も言い直さなかった。故にカリスマはカリスマなのだ。 僕は “長さはこのままで軽くして下さい” という注文を、生意気に聞こえない様に高めのトーンで伝えた。










カリスマのハサミがリズミカルに踊る。僕は目の前に置かれたファッション誌を開いた。眼鏡を外しているので何も見えない。しかしなるべく話しかけられないように、ぼんやりとカラフルににじむだけの誌面を必死に眺めていた。すると奴は『これからお仕事ですか?』と聞いてきた。

まさに仕事前だったが、僕はエヘヘと笑うだけだった。これしきの会話もままならないのだ。それだけ畏怖していた。民族衣装を軽やかに着こなし、受付のお姉さんを時に激しく、時に優しく抱いたのであろうこのカリスマを心から畏怖している。カリスマは『そうですか』と答えた。次元が歪んだ思いがした。会話の成立など必要ないのだ。“何かを質問して最低限のコミュニケーションを取った” その事実があれば。










カットは驚くほどすぐに終わった。顔も服装も九官鳥の様な女性に案内され、シャワー台に移動する。九ちゃんは『暖かくなって今ちょうどいい季節ですよね』と断定してきた。僕の意見が入り込む隙間などない。花粉症真っ只中の苦しい鼻をすすりながら “本当にそうですよね” と答えた。僕は本当にカスだ。









他を回るカリスマを待つ間、九ちゃんが味のしないカモミールティーを持ってきてくれた。否、味はあった。水に雑草を漬け込んだ様な味だった。 “これを美味しいと思えない奴は二度とこの店の敷居をまたぐな”  そんなふるいにかけられている様な気がした。

カリスマが戻り、仕上げをしてくれる。見たことのない業務用のワックスを付け、合わせ鏡で後ろを見せてきた。無論恐れ多くて小まめなチェックなど出来ない。が、一瞬見えた襟足が長過ぎる様に見えた。さすがにジャンボ尾崎さんほどではないし、見方によっては遊びしろを残してくれたようにも見える。しかし疑問は消えない。僕だって無免許ながら10年のキャリアを誇るヘアカット界のブラックジャックなのだ。














 “あ、大丈夫です”










自然と口が動いていた。手直しの要望が言えない事以上に、最初に “あ、” を付けた自分に心底嫌気が差した。弱気な逃げ口上すらも節を付けないと喋れないのか。 

決して安くない料金を支払い、早送りのししおどしの様に頭を下げ、出口まで見送ってくれたカリスマに恐縮しながら店を出た。









“ここには昔お代官様が住んでいたんだなぁ”   






そんな事を考えながら、毛先を無尽蔵に遊ばせた糞芋は家路についた。



























という約1年前の苦い記憶。










またセルフカットに戻った僕は、偶然見付けたとある美容院のサイトに目を奪われた。










【美容院で話しかけられるのが苦手な方は是非当店へ】









なんでもオーナー自身が美容院での会話が得意ではなく、同じ様に思う人達に向けて『無駄に喋らない』というコンセプトでオープンさせた店舗だったのだ。  









これだ。










ようやく見つけた安住の地。幻の都天竺。家からも遠くない。早速予約し、意気揚々と赴いた。もうあんな思いをしなくていいのだ。窮屈な思いをせずに素敵なヘアスタイルを手に入れる事が出来るのだ。僕は勝ったんだ。心の中で喝采を叫んだ。





















マジでなんも喋らな過ぎて寂しくて無理だった。