門構え、アプローチに続いて、中庭についてUPしました。

 

町家というのは、本来、商家の家なので、なんらかの商売をするために、通りに面して建てられます。ひらかた京町家も元々は、京都の新柳馬場通りという通りに面してたっていた米屋兼酒屋でした。

その通りに面している家の表が、今はこの中庭の方に向いています。つまり、現在地に移築された時点で、商売をするための町屋ではなく、住まいとしての町家に変わったわけです。

(商売をやめた町家を仕舞屋と呼び、仕舞屋独特の意匠もあります)

この住まいとしての町家のアプローチ兼庭としてつくられたのが、この中庭です。

 

この中庭は、母屋の表側と米倉・納屋および離れの建物で囲まれた中庭になっています。

 

現在の中庭(北側から南を見る)

右:母屋、左:元・納屋、正面:離れ

 

現在の中庭(南側から北を見る)

左:母屋、右:元・納屋・米倉、正面:物置

 

この元の納屋・米倉は、改装前は、壁は落ちている、屋根も崩れかけで、取り壊すかどうかという瀬戸際でした。しかし、中庭の背景として、漆喰壁と格子戸の雰囲気が良いというので、壁だけ残しましょうという話になりました。が、壁を残す手間を掛けるなら、使えるようにして下さいと御願いして、現在の形になりました。

母屋側は、精一杯、和風に雰囲気を活かして直していただきましたが、裏側は、ガルバリウム鋼板をつかってできるだけコストを抑えてもらっています。

 

改修前の中庭(左奥から、米倉、納屋、貸間)

米倉の漆喰壁が落ちているし、屋根は腐って崩壊しかけていました。よく綺麗に直ったものです。

 

改修前の中庭(母屋側)

元客人玄関の部分を居間に改装していました。

母屋と離れの間をつないで新たに玄関(写真左端:玄関の裏が写っていいます)を作ったので、午前中に光がはいる居間に改装していました。

今回の改修で、移築後の客人玄関を復活してもらいました。

ちなみに、移築前に京都にあったときは、客人玄関はなく、米屋格子の大きい「みせの間」があったと思われます。

 

母屋の土壁がねずみ色しているのは、そういう色の土を仕上げに使っていたからです。京都の土壁は、聚楽壁などに代表される様々な色土を使って仕上げをしますが、ひらかた京町家の元の意匠はかなり渋い色の土壁でした。

おそらく、浅黄土をつかった大津壁だと思います。

ちなみに壁が茶色っぽくなっているのは、表面の仕上げの壁土が落ちて中塗りの茶色い壁土が見えているためです。

 

ひらかた京町家(中庭)