人によって態度を変えることを問題視する人がいる。

あの人にはこう言っていたのに、この人には真逆のことを話した。

「アイツは人によって態度を変えている」となるのだが、

学校の先生に対して「うちの子に冷たい」ということならまだしも、

大人の社会でそれを聞くと、何を言っているんだろうと素直に思ってしまう。

 

物事の道理を理解した人ほど人に対して言うことは違う。

覚者になればそんなことはざらだ。

 

それはなぜかというと、その人のエネルギー状態をみているからなのだ。

 

例えば、前回私は「役割を果たすこと」というテーマでブログを書いたが、役割を果たしすぎて疲れ切っている人に対しては、「役割を果たすこと」を説いても全く刺さらないどころかより傷をえぐってしまうだろう。そういう人には真逆の話をする必要がる。

 

多くの日本人は真面目だ。

頼まれたことには責任感を持って一つ一つこなしていく。

 

毎日仕事をしていると気分よく仕事ができる日ばかりではないし、仕事の量が増えれば楽しんで働くということができなくなっていくだろう。年齢が上がればホルモンの問題も出てくる。

 

社会システムもあって、現状の日本では疲れてしまっている人の方が多いと思う。

 

そこに追い打ちをかけるように「役割を果たすこと」と言われたら。「はいはい、もういいよ」となるのも無理はない。

 

自分の役割を果たしていくことはもちろん大事だが、ただ求められていることに応えていくだけだったら、これほどつまらない人生はない。

 

要は両方大事なのだ。どんな時も半分ずつ。

でも人は放っておくとどちらかに偏っていく。

 

いつのまにかどちらか一方を支持し、もう片方を拒否してしまう。

そして片側だけに偏るとエネルギーが回らなくなる。

 

だから、その人の状況によって説く言葉が変わるのだ。

耳なじみの良い言葉ばかり集めることも大事だが、ある程度蓄えたら耳の痛い言葉も同時に容認していくことを試してほしい。

 

耳の痛い言葉を自分の在り方に照らし合わせて、そこから身体が逃げようとしていないか肉体の反応を観察すると見えてくるものがある。

 

例えば人間関係に悩んでいた場合は対象者がはっきりしている。

 

だが、向き合うべき具体的な相手がはっきり分かっていたとしても、相手と直接話さなくても良いのだ。拒否している自分の心と対話をしていくことで十分クリアになっていく。

 

自分の信念や観念を見つめていくことというけれど、別に信念や観念を書き換えなくても良いいし、ブロックを解除しなくても良いのだ。

ただただ本当は自分はどういう状態で過ごしていきたいのかを明確にしていくことに注力することで自動的に書き換わっていく。

 

何が行く手を阻んでいるのか。

なぜそれが自分の身に今起こっているのか。

自分は本来どう在ればよいのか。

 

問うていく。

なぜ、どうして、もっと分かりやすく教えてください。

今の私に分かるように教えてください。

 

色で言ったら今私はどんな色ですか、そして理想の色とはどんな色ですか。

重さでいったらどうですか。本来はどんな状態で過ごせば良いですか。

教えてください。

 

こうやってあらゆる問いを投げていくと、本来あるべき状態のピースがたくさん集まって、おぼろげながら在り方が浮かび上がってくる。

 

それでも分からなかったら、

「いつか分かる自分でありますように」と願うのです。

 

さすれば必ず答えはやってくるよ。

 

では。