前回功夫について書いたのですが
「行」について書くと
このご時世受け入れられないことが多いのかなと思います
なんてたって風の時代ですからね
「簡単に」
「楽に」
「軽やかに」
が流行している時に「行」について語ると
「時間がかかりそう」
「地味で地道な世界」
「重い」
と捉えられがちですが
実はそうではないんですね
「行」という世界は
楽しいからやるとか
つらいからやめる
という感情の世界ではないのです
ただ「淡々と行う」
それが「行」です
武術や能など
伝統が続いている「道」の世界では
練習のことを「稽古」と呼びます
稽古で何を行うのかと言ったら
多くは型を学ぶのです
型というのは厳格な世界です
視線の位置、足や腕の角度、順序など
が厳正に決まっています
始めてやると堅苦しくて
とても疲れるかもしれない
ただやりこんでいくと
この位置、この角度というのが
分かってきてあんなに堅苦しかった型が
どんどん楽になってくるのです
これはどういうことが身体に起こっているのでしょうか
型というのは個人の癖が絶対に入らないように
設計されているのです
型の稽古をやりこんでいくと
癖が落ちて楽になるのです
ただ楽になってきたなと思って悦に浸ってきたら
稽古を終えるのがポイントで
調子が良い日程長くやらないのです
普通と真逆に聞こえるかもしれませんが、
悦に浸るとそこに居ついてしまうからです
そういう時はまた別の行を始めさせたりします。
これは変な話に聞こえるかもしれませんが、
バランスをとるためには一度崩した方が
バランスは早くとれるのです
この世は流れています
ずっと同じ感覚や
同じところにということはあり得ません
だから良い師ほど
行の辞め時を分かっていて
感覚に依存しないように適切なところで
やめさせます
このように
癖を落とすというのは
作為を失くしていく行為なのです
作為をないと何が良いかというと
先入観がとれていくのです
この先入観というのが厄介で
よく「ありのままみましょう」なんて言われますが
それを邪魔するのが「先入観」なのです
本当は子供のように純粋に物事に接していきたいのですが
私たちはどうしても「経験」があって
それが何を始めるにも経験と照らし合わせてしまい
今、現在起こっていることにバイアスをかけてしまうのです
モノの見方にも癖があって
それは目の使い方に現れます
人は見たいものしかみないので
文字通り目の筋肉も動かしやすいところ動かしにくいところが出てきます
それが自身の癖を落として
作為を捨て重力に沿って生きると
抵抗感がなくなっていきます
後からついた色んなものが落ちて
スっと立てるようになるのです
功夫と書くと重く捉えるかもしれませんが
本当はとても楽で軽やかな状態に近づいていくことです
気分によってアップダウンを繰り返して
それによって自身の行動を毎回変えていくだけが風の時代なのではなくて
自身の癖を落として
先入観なく常に初めてのような気持ちで事に当たっていけることも
また風の時代なのだと思います
前回の記事の補足でした