多くの人は何かしらの組織に属しているだろう。

皆さんは「組織」と「集団」の違いはご存知だろうか。

 

「集団」というのは目的なく集まった人達のこと。

一方、「組織」というのは目的達成のために集まった人たちのこと。

 

そういう意味では野次馬は「集団」と呼べるだろうし、

会社は「組織」と言えるだろう。

 

そして組織には役割がある。

例えば火事の鎮火が目的なら、

「水を汲む人」、「バケツをまわす人」、「水をかける人」、

というように明確な役割が生まれる。組織に属しているのに何の役割もないということはありえないのだ。

 

会社は分かりやすいが、もしかしたら家庭にも「役割」という概念があてはまるもしれない。

 

例えば、親になれば子を育てるという目的が生まれる。

そうなると目的達成のためにそれまでしなくても良かったことが、役割として発生する可能性がある。

 

では、

役割を果たさないと人はどうなるかというと

「言い訳」を始めるのだ。

 

本当は自分が起きて子供をあやした方が良いのは分かっているが、明日早いから相手に任してしまおう。

 

こうなった時に、

「明日早いから」とか、「稼いでいるのは俺だ」とか、「私の方が疲れている」

など様々な言い訳が脳内で始まる。

 

言い訳は「役割を果たしていない」時に出るのだ。

そして言い訳をしている人に対して、文句を言うと必ず揉める。

多くの喧嘩の原因はここにある。

「やらなきゃいけない」と気付いているのに無視するから言い訳がはじまるのだ。

 

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では「役割とは誰が決めているのか」だが、それは紛れもなく自分自身だ。

もっというと自分が持っている価値観から生まれている。

 

・疲れていたら手伝うべき

・女性には優しくするべき

・家事は分担するべき

・気づいたらやるべき

 

など様々な信念と観念が自分の中にあり、それが価値観を作っている。

 

そして、その裏には、

・本当は役に立ちたい

・本当は手伝いたい

・本当は優しくしたい

・本当は喜んでもらいたい

 

などの気持ちが隠れている。

そして、自分が自分の気持ちを無視すると言い訳が始まるのだ。

 

あと、信念や観念のことをよく「刷り込まれた」と表現する人がいるが、これだと被害者意識を強めてしまう気がしている。もちろん、親だったり学校だったり教育からくる観念は強いのだが、一方で自分が「勝手に持ち続けているだけ」とも言える。

 

一度刷り込まれてしまった観念は根強く、油性マジックのように中々消すのは難しいと思い込んでいるみたいだが、それこそが観念ではないだろうか。

 

不要だと思うことはどんどん手放したり書き換えたら良いし、もっといえば刷り込まれた観念を持っていても全然大丈夫なんだと決めてしまえば良い。

 

それよりも、言い訳している自分に気づいたら即行動すれば良いし、その日だけ疲れているなら関わる人たちとちゃんと話をすることだし、慢性的に疲れているなら生活を見直すことの方が、動いてくれない相手に腹を立てたり、観念を刷り込んだ人達を恨んでいるよりよっぽど建設的なのだ。

 

自分が心地よく過ごせるように、人と話し合うことだったり、行動することだったり、良い気分でいることなど、結局基本的なことが大事になるよね。

 

ではまた!