「能力開発」と「心の成長」はセットで語られることが多い。

それはなぜだろう。

もしかしたら昔見たアニメが「巨大すぎる力を制御できずに苦しむ」というストーリーのものが多かったせいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

リーディング、チャネリング、空中浮遊、テレポーテーション、テレキネシス、ヒーリング等この世には魅力的な能力が存在しているし、能力開発のハウツー動画も数多く存在する。

多くの人は能力だけを手に入れたいと思うかもしれないがそこには必ず心の成長が求められる。

 

成長という意味では私たちにも幼い時期があり、その時から比べたら多少なりとも成長したと言えるだろう。また、その時のことを振り返ることで成長とは何かが実感を通して理解できると思う。

 

例えば、幼児は食べ物を目の前にした時、食べ物を通して意識の中に想起されるものはまだ何もない。だが、幼児が成長すると食事は母親が作ってくれたものという認識が持てるようになる。

さらに成長すると、その料理に使われている食材は近所のスーパーで買ったもので、今食べようとしている野菜はそのスーパーに野菜を卸している地元の農家が栽培したものと、想像することができる。

 

そして大人になれば、目の前のテーブルに置かれているものは、食事だけであるにも関わらず、食べ物の背後に社会を感じ取れるようになる。

 

このように、幼児から大人への意識の成長過程を俯瞰すると、一つの対象物を通して意識をどんどん拡張し続けることができるということが分かる。

 

私たち日本人はかつては共感する力がとても高いと言われていたが、この能力を部分だけみれば、「相手の考えていることが分かる」というリーディング能力の高さへとつながる。

 

だが、背後を読む力が育っていなければ、その能力はエンパスという形で現れ、相手と自分をセパレイト(切り離す)ことができずに苦しみを生む。ヒーラーであれば受けやすいという体質の悩みにも繋がるかもしれない。そして、現実をみる力が育っていなければ、妄想の世界に突入し、そこから出てこられなくなる。

 

今の日本の社会を見ていると、この背後を読む力が育っていない気がする。自分の発言や行動が社会にどう波及するのか、つながりを感じる力が使えていないのだ。


相手の立場に立って感じてみる、そしてその後に俯瞰して全体を取り巻く状況を眺めてみるという力がごっそり抜けてしまったように思う。

 

これはオーラ体で考えても同じことが言える。

オーラ体というのは肉体に近いところからエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体とどんどん拡大していく。

 

エーテル体は気のボディともいわれ、感じることもできるし、サーモグラフィーなどの特殊な機材を使って見ることもできる。

 

アストラル体は感情のボディで感情によって変化し、メンタル体は自分の持っている信念や観念が大きく影響を与えている。

 

コーザル体より上のオーラ体はどんどん空間に溶けていく。つまりより社会的なものへと変化していくのだ。個から全体性へ向かっていくということだ。

 

だが、つながりを感じることができなければ当然自分のことだけしか考えられなくなる。ハートは閉じ、自分の好みのものしか受け入れなくなる。

 

まるでYouTubeで好きなチャンネルしかみないように、現実世界でも閉じた世界で生きていくこととなる。


皆みている世界が違う中でどうしたらお互いを尊重できるかというのが人類の大きなテーマであろう。


自分のすることで自分や仲間が勇気を持ち、希望を抱き、喜ぶことができていれば、幸せは舞い込んでくる。これは本当だ。


だが、どんな能力を得ようともここからズレると鉄雄いきだ。

 

例えば、父から子へ受け継ぐものがあっても、子が閉じていたら伝わるものは何もない。ハートからハートへ受け継ぐものというのが人にはあるし、人だけでなく空間から人に渡すものもある。そもそも恩寵というものはハートへと渡されていくものだったりする。

 

これは親子関係を良くしましょうという話ではなく、仲良く出来ないなら仲良くできないで、それはそんな自分も許してあげれば良いし、このことによって劣等感を積まないことの方が大事だ。


その上で背後に流れている法則の方に目を向けて欲しいのだ。


これは結晶を見てみると良く分かる。美しい結晶というのはシンメトリーなのだ。偏りがなくなると結晶化するのだ。


決まった世界、決まった周波数にしかアクセスしていないと、決まった形でしか受け取ることを許していないため、取りこぼしているものが沢山ある。

 

スロットでいうなら子役を全部無視しているということでもある。分かりずらいか。

麻雀でいうなら上がりたい役を始めに決めてしまっているから…いや、やめておこう。

 

まぁ、とにかく伝えたいことは、特殊能力は部分であるということだ。反対に心の成長と共につながりを感じる能力はどんどん伸びていく。

それに伴いひらく能力もあれば、追い求める必要のないパワーだったということに気付くこともある。

部分しか見ていないということは木を見て森を見ずなのだ。


私たちはどんな時も楽しむか楽しまないかを選択することができる。

現実化できなかった。
引き寄せまでにタイムラグがある。

細かくオーダーしなかった。
などとはよく聞く話だが、部分だけみるとそうなるが、全体をみるとタイムラグも予期せぬ叶い方も楽しめる余白の一部なのだ。

育っていない部分も同じで余白であって伸びしろである。
主人公は能力を使いこなしてこそであろう。

では本日はおしまいでござる。