ご無沙汰もご無沙汰ですね。

全くもってブログが書けなくなりましてね。

それは今も続いているわけですが、熱を持って書けるものが湧いてこないといった状態です。

 

何か切り替わる時って毎回そんな感じな気がします。そういう時は発信ではなく黙る。黙想ですね。

 

そして大幅に色んなものを処分しました。

本なんかも、読もうと思って部屋の隅に積んであった本は全部売りました。

あと、いつかこの知識は使えるだろみたいなモノたちも、「いつか」がやって来た時に買おうと思って売りました。

 

そうすると、不思議なことに色んなことを忘れていくんですよね。

エクセルの関数みたいなもので、使わないと枝葉の知識はどんどん忘れていきます。そのおかげで容量にガバっと空きができて、受け皿ができたような感覚です。

 

考えてみればしがみついてまで覚えておくことなんて何もなかったので、もう忘れていくことも“良し”としています。その結果どうなったかというと何にも困ることはありませんでした。ということは覚え続けていなくてもよかったっぽいですね。

 

その流れの中で今フィットしていないものはどんどん流していっています。反対にフィットするものはガンガン取り入れています。

 

今は、自分が「創りたい空間」というものに意識が向いていて、空間にフィットするかどうかという基準で色んなものを眺めています。

 

来年辺りにはひと段落しそうですので、今集めているモノたちも形としてお披露目できるかなと思います。

 

これからは、発信していく内容も、直接的なものや即効性のあるもの、お得情報なんかはなくなっていくような気がしていますね。派手な動きがなくなっていくような、そんな雰囲気です。

 

こぢんまりと、少人数で分かち合っていく、その様な流れを自分の奥から感じています。ワークとかではなく、五感を開くような遊びをしていきたいですね。

 

やはり、躰が基本ですので、頭よりは躰から入っていく方が色々早いような気がしています。そして本当に良い状態というのは、例え悪いと思える状況になったとしてもワクワクしてしまうものです。状況を楽しめるといいますか、そういう余裕のようなものを躰の奥に感じている。自分の選択と歩み、そしてポテンシャルを信じられて委ねていける。

 

でもこれって頭で考えていても中々そういう状態になれない。どうしても短期的なモノの見方になってしまうし、結果を求めてあっという間に解決できる方法を探してしまいたくなります。

 

ただ基本的にはここは二元の世界ですから、両方に開いているということにキーがあります。自分が求めることと、求められること両方に開いていることがとても大切です。つまり人に変化を求めるなら、自分に変化を求められることにも開いていようということです。

 

誰かを評価・判断・分析しているのなら自分も評価・判断・分析されることを許していないとどんどん辛くなっていくような仕組みが働いている気がします。

 

そこにはやはり、「自分を扱ってほしいように相手も扱う」という基本であり、つい忘れてしまうことが隠れているわけです。

 

「そのままで良いよ」って言ってほしかったら、人にも「そのままで良いよ」と言うこと。片方だけしか許していないということは、一方通行、進入禁止です。ということは求めるものが入ってこない。そのようなことが日常的に起こっているのだと思います。


そんなことがうっすら分かり始めたら、短期的なモノの見方になってしまう自分も、すぐに結果を求めてあっという間に解決できる方法を探してしまう自分も許して進んでいくのです。それが全方向に開いていくことでもあります。

 

頭の世界、大脳皮質で捉えている世界というのはどうしても評価・判断・分析の世界に突入していきます。思考にも質量がありますから、それをいかに落としていくことができるのかというのがテーマです。これを頭だけで行おうとすると中々難しいですね。

 

躰を使いながらというとどうしてもワークのようなニュアンスが入りますが、お茶でも飲みながら遊びましょう。というのが今一番すっきりする表現かもしれません。

 

頭も躰も自由に行き来して、軽やかに参りましょう。

 

ではつらつら書きましたが、本日はここまで。