自分の力でどうにもできないことがある。
生まれであったり、病気であったり、死であったり、事故であったり、トラブルだったり、職場で出会う人だったり、内容は様々だが、どうシミュレーションしてもこれだけは避けられなかったと思う瞬間が生きている間には必ずある。
そういうことに直面する度に、これはもう運命だったんだなと思うことにしている。
こういう避けられない事象には強制力が働くため、否応なしに向きあわざるを得ない。ゆえに学びが深いのだ。
親と子の関係というのは避けられないものの代表だろう。
人間なんてモノの見方が全員違うのだから、意見が違うのは当たり前なのだが、これが親と子になると許容できないことが多分にある。
思想と思想がぶつかってしまうのだ。
私が正しい、いやこっちの方が正しいうんぬんかんぬん・・・
ワクチンの話でこういうぶつかり合いの話はよく耳にしたが、結局情報と情報の出し合いに終始してしまうことばかりであった。本当にみるべきところは情報の真偽ではなくて、「どうあったとしてもあなたが幸せであることが一番幸せです」という部分だと思うのだが、どうしてもそこにコントロールが忍び込んでしまう。
「私の思う形で幸せになってほしい」という余計なお世話がお互いに働いてしまうのが親子関係であろう。この余計なお世話というのがどこからきているかというと、これはただの情報の世界の話なのだ。
これではディベートと変わらない。これこれこういうデータがあるからこう考えることが正しいんですよと、自分の意見を通すことが目的となってしまう。だけど本来の主語は「あなた」であり、「どうしたらお互いにとって良いか」という部分に向かって話すからこそ、一緒に考えていくことができるのだけども、いつの間にか相手がぬけおちて主語が自分へとスライドしてしまう。
これでは結局自分の主張を通したいだけということになってしまう。そして必死に主張しているその意見というのは、はたして本当に自分の意見なのだろうか。どこかの誰かが作った情報ではないだろうか。実はあらゆる意見が本当は自分のモノですらない。どこかの誰かの借り物なのだ。
こうやって自分から出てきたこと以外のモノたちがいつの間にか積み重なって、それがまるで真実かのように思いこんで生きているというのが問題の本質だろう。
避けられないものに出会った時は、「縁」を大切にしていくと、本来観るべきものが立ち上がってくるように思う。
あとからついてきたものは意外と捨ててしまっても困らないものだらけで、その中でも特に思想や哲学といったこだわりほどハートへの扉をかたく閉ざしてしまうと強く感じる。