澤地久枝さんの『密約:外務省機密漏洩事件』を読みました。


Hiraha-Library-密約


沖縄の米軍基地問題は今でも議論されていますが、その根底にどんな背景が横たわっていたのか、

しっかり学んだことはありませんでした。

今回この本を読んで、私は生きてきた23年間、何を根拠に法を信じてきたのだろう、と改めて感じた次第です。


内容としては、高度の外交交渉が低俗な男女問題にすり替えられ、政府の責任がしっかりと問われないまま今日に至っているというものです。


沖縄偏見協定四条3項で、日本側が400万ドルを肩代わり支払する、という密約。

当時、毎日新聞の記者だった西山太吉は、その証拠となる書類を外務省事務官の蓮見喜久子さんから入手しました。

西山記者は取材源の秘匿を守る必要があり、ぎりぎりのラインを自分なりに考えた上で、実際の文書を新聞には掲載せず、報道の立場から暗に政府を追い詰める道を選びました。

しかし、仲介者を通して社会党の横路孝弘委員に渡され、それがのちに一組の男女に悲劇を与えることになります。


事件の内容としては、本の「解説」部分で五味川純平さんが的確にまとめています。


「権力側が外国と重大な密約を行なった。国民は当然知る権利があった。その権利を阻む官僚組織の壁が厚かった。一人の記者がその壁を透して隠された事実を明らかにしようとした。官僚組織内の一人の女性がそれに関係した。」


簡略に図式化すると、これだけのことです。

中心となるべきはもちろん、政府がアメリカと結んだ密約。そしてそれを隠蔽しようとしていた事実です。


しかし、権力は強い。世間を見方につけ、いとも簡単に問題をすり替えてしまったのです。


検察側が問題にしたのは、西山記者が文書を入手した相手と、性的関係をもっていたということ。

有夫の身であった蓮見さんに対して、それは「そそのかし」にあたり、国家公務員法に違反するというのです。


さらにひどいことに、文書を渡した張本人である蓮見さんが、社会のつくりあげた「弱くて自主性のない哀れな女性像」にすっぽりはまる道を選んでしまった。

世間はうまく踊らされ、西山記者はひどい男、というレッテルを貼られ、政府の思惑通りに問題の本質は議論されなくなりました。


それに対して異議をとなえたのが、澤地さんのこの本です。


検察や裁判官、そして法。

何を根拠に正悪を決め、何を基準に裁いているのか。

そこにはしばしば権力が働いているという事実を見逃してはならないと感じました。


もう一つ感じたのが、タックスペイヤーに対する政府の義務における日米差です。

アメリカを良しとするわけではありませんが、義務感でいえば当時のアメリカは筋が通っている。

国民に説明できないから、として結ばれたのが400万ドル肩代わり密約です。

日本は肩代わりの「見せかけ」に関して、米側から説明要求の心配までしてもらっています。

密約それ自体もひどい話ですが、政府による日本国民への政治意識の低さも露呈した形となりました。


そして澤地さんがご自身の経験から書かれている、40代の女性が感じる焦り。

これは、実際その時になってみないとわかりませんが、東電OL殺人事件をふと思い出しました。

あの方も、40を間近に控えた39歳だった。

だからどうというわけではありませんが、澤地さんは40代女性としての共感があったからこそ、「無垢な女」を演じ続ける蓮見さんに、もう一歩進んでほしかったのだと思います。


取材源の秘匿や知る権利、報道の自由、そして国家機密。

いろいろな問題が絡み合っているこの沖縄密約事件は、戦後の日本を体現しているという評も正しいと思います。

日米安保条約や日米地位協定を考える一つのきっかけとして、今後も経過を追っていければと思います。


スーザン・ピンカー『なぜ女は昇進を拒むのか―進化生理学が解く性差のパラドクス』を読みました。

原書のタイトルは"The Sexual Paradox: Men, Women, and the Real Gender Gap"なので、ちょっとニュアンスが違うかなーとは思いますね。

しかもこの表紙(笑)


Hiraha-Library-なぜ女は昇進を拒むのか

amazonからの借用画像ですみません。クリックしても中身は検索できません(笑)


進化生理学ということでこの画を使ったのかもしれませんが、一瞬ぎょっとしました。

というより、図書館で借りるときにぎょっとされました。


この本を読んだきっかけは、社会生物学の研究をなさっている方とお話する機会があったからです。

時間があったら目を通しておいてくださいと言われ、提示されたのがこの本です。


いつぞや、発達心理学はフロイトの影響をもろに受けているので、学問の出発点からしてジェンダー研究とは相いれないものがある、と書いたことがあります。

生物学や進化生理学にも似たようなことがいえるのでしょうか。

お話した研究者の方は、自分の学問領域だけでは見えないことをジェンダー研究社から散々指摘されるので、ジェンダーの方も勉強したいとのことでした。

こういった研究者が増えると、お互いの主張をもっと理解しようという意識が生まれ、非建設的な敵対関係も和らぐかもしれませんね。




…とはいったものの、会ってみるとなんと話の噛み合わないこと(爆)

やっぱり大学院ってなんだかんだ洗脳される部分もあるし、大学のカラーなんかとも合わさって非常に頑固な思考が形成されてしまうんだなーと思いました。


肝心の本の内容ですが、ポストモダン・フェミニズムの考え方でいくと、この題名からしておかしいということになる。

女が昇進を拒んでいるのではない。社会が女の進出を阻んでいるのだ、と。


しかし、女性の機会が増えた現在でもなお、なかなか管理職レベルの女性が増えない。

今までジェンダー平等の名の下に男女平等理念を据え付けてきたけれど、やはりこれには生物学的な男女差があるのではないか、そんな知見から出発したのがこの本です。


臨床心理士である著者が注目したのは、子ども時代のADHDや自閉症には圧倒的に男性が多いという事実。

にも関わらず社会に出ると重要なポストにつくのは男性が圧倒的多数。

エリートコースを辿ってきた女性は、自らキャリアを離脱して家庭を重視することも多いという。

それは、本にも掲載されている女性へのインタビューによって裏付けられています。


この事実を説明する理由として、生物学的性差を挙げています。

そもそも男女は価値観の認識が違う、と。

いわゆる「市場価値(役職、収入など)」に価値を見出す男性と違って、女性はもっと働き方や個人の充足感に重きを置くのだそうです。


この辺りは、ギリガンの主張を念頭に置くと理解しやすいかと思います。

実際著者もギリガンを引用し、「共感性」などの「道徳的」観点を紹介しています。

「共感性」などの特性は、社会など外的圧力によって女性に押し付けられたものであるというのがギリガンの主張。

それに対して著者は、それを「遺伝的・神経学的要因やホルモンに起因する人間の特性の一つ」として扱っています。


ここまではいい。

なるほど、そういう見方もあるんだな、という程度に読んでいました。


しかし、読み進めていくと上に挙げたことが「女性の特性」にすり替わっているのです。

X染色体やY染色体の話も出てきて、いかに生物学的にそれが立証できるか、ということが述べられていきます。


やっぱりこういう「データ」を出してくるあたり、社会科学系と噛み合わない原因かな、と思ったりします。

本の紹介部分にも書いてあることも、突っ込みどころ満載↓


「男と女は、やはり本質的に『違う』のではないか?統計的にもあきらかな生物学的違いを無視して、杓子定規に『平等』を求めることは、本当にわれわれを生きやすくするのだろうか?」


いや、別に「杓子定規に『平等』を求め」たりしてないですから(笑)

そのあたり、ギリガンには同調できたのにこの本には納得できない理由の一つです。


「本質的」な違いの解明が、生きやすい世の中をつくるとは思いません。

突き詰めて考えていったら、一人ひとりみんな違うわけですから。

60年代フェミニズムの主張への逆行だとは思いませんが、同じような盲点はあると思います。


最後に、余談を一つ。


同席した別の研究者さんによると、この「男女の違い」が教育界で問題になっているのだとか。

先に少しご紹介したように、ADHDや自閉症など、「問題」を抱えるのは男の子が多い。

それは、机に向かって長時間椅子に座り、授業を聞くという制度に問題があるのではないか、と言われているそうです。

そこで検討されているのが、教育体制の見直し!

「今の制度は女子にとって有利である。だから、女子の方が勉強がよくできるし、進学率も高い。これではいい学校が女性だらけになってしまうから、男性も平等な機会が得られるような新たな評価基準をつくりましょう」

という話らしい。


冗談じゃない!

こういうところが、男性中心の社会システムだと思うのです。

今まで自分はフェミニストを自認していなかったけれど、この談話の後に、やはり自分はフェミニストであると認識しました。

そんな身勝手な制度変革には賛同できませぬ。

徹底的に闘いますよ。

森博司著 『喜嶋先生の静かな世界』



Hiraha-Library-喜嶋先生の静かな世界


インターン先の社長さんに薦められて読んだ本です。

「これを読むと、平原さんはもうちょっと大学院の勉強に比重を置いた方がいいと思うw」というようなことを言われました。

そう。私は課外活動を熱心にやってしまうのです。

かたや、喜嶋先生は研究者の鏡。


「大人でも夢中になって自分の好きなことをしている人がいる」

「疲れた顔をして、愚痴を言いながら、社会の歯車になっていくだけが人生ではない、という救いの道が一つ示された」


主人公の橋場君にそう思わせた研究者が、喜嶋先生であり、そこについているドクタ3年の中村さん。

中村さんも使う「喜嶋語録」からは、学ぶことが多かった。

自分なりにリストアップしたものも含めて、少しだけ以下にご紹介。


「僕が交通事故で今死んでしまったら、僕のファイルにあるデータの意味は誰にもわからなくなってしまうにちがいない。それらを誰にでもわかるようにしておくこと、つまり文章にして書き記すこと、一種の遺言のようなもの、それが、すなわち論文なのだ」(p71)


「自分一人で一度だけ登るなら、最低限の足掛かりで充分だよね。・・・だけど、あとから同じ道を登ってくる奴がいるわけだ。自分だって、そこをまた通るかもしれないじゃん。そういう場合のために、ちょっとサービスをしてやるっていうのが、まあ、研究者の良識というものなんだな」(p72)


「人が人をどう捉えようと、それは自由だし、何が正しくて、何が間違っている、という問題ではないから、議論をしても嚙み合わない。」(p107)


「良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。」(p152)


「科学の前で、研究者は平等なのだ。科学というのは、そういう意味で民主主義と似ていると思う。」(p202)


「学問には王道しかない」「この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき正しい本道のことだ」(p211)


「変だよね。そうやって、心みたいな言葉を持ち出さないといけないっていうのが、…数式を一所懸命考えている人って、みんなのことを認めているのに、人間の心がどうこうって言う人は、数式を考えている人を認めないじゃない。他人を認めない人の方が、人間として、なにか欠けているじゃない?」(p281)



研究者には鬱が多いし、若い研究者の自殺率もそれなりに高い。

地道な作業からくるストレスや、雑務に追われる忙しい生活、あるいは、哲学的に考えて自らが積極的に選んだ答えかもしれない。


やっぱり、「世間」から見ると異質な存在だし、社会に適合できない人種、なんて見られることもある。

でも、そもそも社会に適合しなければならないと決めたのは誰?

「社会」のスタンダードを決めているのは誰?

そう考え出すと、研究者を異質と見るのも、おかしなことだよなーって思えてきます。


もちろん、政治的な研究者はいっぱいいますよ?

もしかしたらそっちの方が多いかもしれない。

出世するために一生懸命大学に尽くして、学会ではルールに従わないものを排除し、段階を経て偉い人に上り詰めていく。

生きるため、あるいは家族を養うためにはある程度必要なことだとは思います。

ただ、喜嶋先生みたいに純粋な研究者が身近にいれば、研究に対する姿勢だけでなく社会の見方までも変わるのは確か。

貴重な存在だな、と思います。



そんな私は来年から就職して働くわけですが(笑)

院で学んだことが「良い経験になった」で終わらないよう、しっかりと社会に還元していこうと思います。