今日は国際文化会館 にて、留学先であるVassar College の日本支部による会合がありました。

日本支部といっても正式なものがあるわけではなく、今回はある卒業生の声掛けにより集まったようです。

今年、Vassarは創立150周年なので、いろいろとイベントをやっているんですね。


私が留学したのは2008年なので、もう3年前の話です。

リーマンショックの年であり、大統領選でオバマが選ばれた年でもあります。

思えば、アメリカにとっては激動の一年でした。


今日いらしていたかたは年配のかたが多く、日本からの留学生や、日本で働いているアメリカ人が主でした。


歓談が中心の会でしたが、Vassarの教授によるプチ講演もありました。

プレゼンターはDr. Shimoda Hiraku

Vassarを卒業後、HarvardでMasterとPh.Dを取得されています。


経歴の通りスマートなかたなのですが、それと同時にとっても気さく。

数年前、学生たちと一緒に東京湾の納涼船に行ったことがあります(笑)

そして実は生家が私の実家とめちゃくちゃ近い(笑)歩いて数分の距離だと思います。


さて、そんな下田先生が本日講演された内容は、"Legacy of Post-War."

ご自身がVassarの講義で使ったことのあるプロジェクトXを題材にお話されていました。


内容は、以下のような感じです。


プロジェクトXは「奇跡の復興」を遂げた日本をドラマティックに表現しているが、

その焦点は会社そのものよりも、個々の人間である。

また、国家や政府による取組ではなく、普通の人間のtrial & errorが描かれている。


この点から考えると、一見この番組は民衆を扱ったもの(populistic)に思える。

なぜなら、国家や政府と相対して、マージナルな部分にあたる「ものづくりエリート(technological elite)」が主役だから。


しかし、果たして本当にそうだろうか、というのが下田先生の問いです。


番組で扱われる内容は、イノベーションを可能にした、献身的な(devotive)人々。

self devotionやself sacrificeが賛美されています。

これは、違う見方をすれば戦時中に奨励されていた全体主義と似ている。

戦後出てきたネオコンの存在と合わせると、プロジェクトXが高い視聴率を得たのも偶然には思えない、というお話でした。


プロジェクトX自体は2005年で終了していますが、下田先生は現在の他のメディアにも同じ傾向が見られると指摘しています。

例として出したのが、東京タワーのキャラを使った「昭和力」キャンペーン、そしてJR東日本のポスターです。


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JR東日本ポスター


どちらも高度成長時代の日本を想起させ、もっと頑張ろうといったメッセージが読み取れます。

このような戦後の「成功」を礼賛する一方の風潮に、危機感を覚える、というのが下田先生の主張でした。


なぜなら、「成功」には負の側面ももちろんついてきたから。

公害、森林破壊、地球温暖化、軍事力への利用等々、挙げだしたらきりがありません。


また、プロジェクトXの全177話中、女性が中心に取り上げられたのはたったの3つだということにも言及しておられました。

非常にmasculine重視であり、一面的であると。


私なんかは、ふんふん。なるほどー電球などと聞いていたのですが、なかなかすごい批判に遭っていました(笑)


「それは単なるこじつけである」

「過去を振り返って祖先を尊敬し、彼らの業績を讃えるのは人間の真理」

「日本だけでなく万国共通だ。それがナショナリズムにはつながらない」

「そこでJRのポスターを出す意味がわからない」等々



確かに、こじつけだと言ってしまえばそれまでです。

それに、JRのポスターはあくまでも新幹線=「夢の超特急」を前提にした商業用の宣伝が目的です。


しかし、下田先生が指摘したこの傾向を「万国共通」「人間の真理」で片付けるのはどうかなーと思います。


特に、国と対比させたときは民衆というマージナルな部分になるのに対し、

必ずしも彼らが復興期の日本全てを表していたかというと、そうでもないと思うのです。


もちろん、ものづくりエリートがいたからこそ、今があるのは事実です。

私も技術の恩恵を存分に受けて育っています。


しかし、ちょっと全体主義的な、ナショナリズムのようなものを感じることも多々あります。


3.11の地震の後もそうでした。


「がんばろうニッポン」と日の丸がそこかしこで見られ、皆が団結しようとしていました。

「節電」はつらいけれど、計画停電や輪番制で皆が苦労を負担しようとしていました。


日本は危機に直面しているし、これらは確かに必要なことです。

でも、なんか似ているんですよね。「欲しがりません、勝つまでは」の言説に。

そのあたり、下田先生の講演に共感する部分はあると感じました。


今日の講演で面白かったのは、なんとなく世代間で意見が対立していたこと(笑)

年配のかたご自身でもおっしゃっていました。


ナショナリズムの感じ方に、世代間ギャップがあるのでしょうか。

戦争を身近に感じていない私たちの方が、敏感になっているのかも…?


知らないからこそ恐い。そんな心理がはたらいているのかもしれませんね。


『トポロジカル宇宙 完全版―ポアンカレ予想解決への道』を読みました。


Hiraha-Library-トポロジカル宇宙

はっきり言って何割理解しているのかわかりませんが、冒険心の湧いてくる本です。


元々宇宙が好き。

一番好きなのはボーデの法則。


でもボーデぐらいわかりやすいものでないと理解が追い付かないのが現状でした。


この本は本文でも述べられているように、知識を蓄積するためのものではありません。

自分の脳を活性化させるためのもの。そんな感覚です。


宇宙の形とは?という問いから始まり、次元を超えて宇宙の形を直観することに努めていきます。

個人的には、地球儀ならぬ宇宙儀製造計画あたりからなんとなく覚醒されてきました。


折しも先日、科学的な定理はどこまで信じられるか、という話をサ●ゼリアに居座って何時間もしていたところ。

「三角形の内角の和は180°」を例に話し合っていましたが、「エッシャー宇宙」ではそもそも平行線の公理が成り立たない。したがって三角形の内角の和も180°にならない。

言われてみればなるほど、という感じですが、「数学は生きている」ということに気付かない生活を送っていると頭も凝り固まってしまいますね。


地球の形がわからない時代に、自分の仮説を確認しようと航海に出たコロンブス。

日本の形がわからない時代に、地道な測量で地図の作成を試みた伊能忠敬。


究極のロマンですね。

このような前例を挙げられると、宇宙の形を把握することも可能に思えてきます。


そして、ポアンカレ予想を解決に導いたグレゴリー・ペレルマン。


彼、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を辞退しています。

「フィールズ賞には興味がなく、『ポアンカレ予想』の証明ができればそれで十分だ」とのこと。

100万ドルの懸賞など関係ない。真の数学者だなーと思いました。


なんとなく、山本周五郎に似ているような気がします。


彼は直木賞の唯一の辞退者です。

一説によると、直木賞を主催していた菊池寛との不和なんかも挙げられますが、

自分の作品を評価できるのは読者だけであって賞ではない、という信念もあったんだと思います。


そんな彼の名を冠した「山本周五郎賞」ができてしまったのは何とも皮肉ですが…笑



話を宇宙に戻すと、宇宙への興味・関心は学者のものだけではない、ということを実感しました。

天文学や数学だけでなく、すべての学問にいえることだと思います。


「私たちが子どもの頃に心に描いていた宇宙はもっと自由なものだったはずです」


あとがきに書かれたこの一文からもわかるように、もっとこういった未知のものにワクワクする心は誰しもが持っていていいと思います。


研究者になると学会の縛りがあったり、論文を書くときには段階を踏んでいなければならなかったり、年に何本論文を書かなければ出世できなかったり、というしがらみがあるそうです。

ある程度道理の通っていることではあるんですが、そのような環境でワクワク感が失われてしまうこともあると思います。


もっと自由に、学問への探求心を表現できたらいいですね。


いざ、第二期大航海時代へ!

ベル・フックス著 『ブラック・フェミニストの主張―周縁から中心へ―』

bell hooks FEMINIST THEORY: from margin to center


を読みました。


フックスの作品は"Ain't I a Woman?: Black Women and Feminism"をアメリカ留学中に読んで以来だったので、なんと3年ぶりの再会です。


今回読んだのは彼女の第二著にあたり、邦訳刊行されている数少ない作品の一つです。

しかし原著を大きく歪めていて著者の思想を伝えていないという批判もあり、やはり原著で読むことをお勧めします。


今回は第1章のみご紹介。


フェミニストは公に批判し合わないことが暗黙のルールでした。

しかし、その状況がいかにブルジョワフェミニストの利益を維持するのに貢献してきたか。

そういった背景から、彼女の主張は生まれています。


多くのフェミニズム理論は中心体にしか位置しないため、様々な人間の経験を包括しうる幅広い分析に欠けている。それこそが全体性に欠ける理由であり、フェミニストの結束を阻んでいると主張しています。


現代フェミニズム思想の中心的な教義の一つが「すべての女性は抑圧されている」ということ。


「共通の抑圧」は、特権をもった多くの女性たちが、自らの社会的地位と大多数の女性たちの地位との差異を無視するために必要とする言い訳であると述べています。


その中心を担ってきたフェミニストとして、ベティ・フリーダンBetty Friedanやレア・フリッツLeah Fritzを挙げて批判するベル・フックス。

白人・有閑階級の女性たちが自らの見解を疑問視せず、差異よりも共通の絆を強調することに疑問を投げかけています。

絆が強調されることで、逆に民族や人種による階級の境界線を越えて結束する可能性を否定しているのだそうです。


絆の過度な強調に疑問を呈する理由は、そもそものフェミニスト意識の獲得過程にあります。


フックスは、自分のフェミニスト意識は社会環境や実体験から培われたと主張しています。

アメリカに住んではいたものの、黒人家庭に生まれ、抑圧集団の一員として性差別による搾取などを経験してきました。

そういった家父長制的専横の経験に怒りを覚え、男性支配の政治的仕組みを疑問視するようになる。それが性差別的な社会に抵抗する自分を形作ったのだと述べています。


十分に納得できる意識の形成過程ですよね。


しかし、白人女性たちは、黒人女性のフェミニズム意識は自分たちが提供してあげたものだと信じ込んでいる。

だからこそ、フェミニズムグループに黒人女性が参加するときは「承認」の形をとるのであり、黒人女性からは支配的な言説に合致する「本物の」発言を期待する。

要は、彼女たちにとって黒人女性は運動のプロセスを正当化するのに必要な存在なのです。

自分たちは、解放のための「的確な」分析やプログラムを提供している立場。その地位を手放したくないだけ。

しかしそういった潜在的な支配欲にすら気づいていないことがさらに問題であるとフックスは考えています。


このように黒人女性を「対象物」としか見なさない限り、劣位に置かれる不平等な関係はなくならない。

関係の本質を神話化せず、性と人種と階級の抑圧の相互関係を理解する必要があると主張して、第1章を締めくくっています。


ちなみに、その「相互関係を理解する」方法として第4章で挙げられているのが、「シスターフッドの形成」です。

すなわち、性差別・人種差別・階級主義は女性同士のシスターフッドを妨げる壁であると。

それを克服し、多様性を認めながら結束することが求められる、と、こう述べています。




なんというか…あーぁ、って感じですね(笑)


前半部分の主張はもっともだと思います。

「共通の抑圧」概念には現代フェミニズムを先導してきた中心体からのみの視点が含まれている。

それは否めないし、事実だと思います。


ただ、それの「解決方法」として「しすたーふっど」とかいう言葉を出されると、寒気がしてきます。生理的に。

研究者としてあるまじきことですが(笑)


ゼミでもそれが論議に上りました。

結局、他の女性とどのような関係性をもつのか。それを分析したうえで、自分の立場性を考えることなのでは、という意見にまとまりました。


うん。「しすたーふっど」とかいう言葉を使っていないだけで、こんなにも正当性をもって聞こえる。


どんなに正しいと思うことを主張しても、表現の仕方一つで変わってしまうものなんですね。

こだわりだからこそ、変えたくないんだろうけど。


あ、ちなみに表題の「小文字へのこだわり」は、フックスが名前表記に関して持っていたこだわりです。


bell hooks


よく見ると、彼女の名前は最初の文字がキャピタライズされていません。

そこにこだわらないということが彼女のこだわりなのだとか。



…まぁ、日本語にするとどちらも「ベル・フックス」で同じになってしまうんですが(笑)