Re:富山第二機関区 | みりいどのブログ

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 大井川を渡りました。富山に向けて出発しました。富山着は12時ちょい過ぎ予定。

 前の日記は表題に触れることなく閉じてしまっていました。富山第二機関区→(通称)富山二区→富山に行く、という暗示は特にありません。ただ書くのを忘れただけです(^_^;)。というわけでこちらは完全に鉄道のお話。

 「第二機関区」は国鉄末期に鉄道ファンのキャリアを始めた私には馴染みのある、そして懐かしい響きの言葉です。

 どこにあったか?

岩見沢
高崎
稲沢
富山
吹田

くらいですかね。敦賀にもあったかな? 長岡や広島には…なかったんじゃないかなー。

 当時の大幹線に置かれています。二区が出来たところには旧来のナンバーなし機関区があり、それらは「第一機関区」に改称されました。車両配置としては一区に蒸気機関車・ディーゼル機関車・気動車、二区に電気機関車、という分配がされていた印象があります。

 でも、両者が一緒にいた区もあったはず…郡山とか新鶴見とか。あ、でも、短期間のラップだったりもするのかな?

 電気機関車を配属させるにあたり、敷地の問題から既設箇所(一区のある場所)とは違う場所に設置したために管理を二つに分けた、ということだと説得的です。既存の区とは(第二機関区という名前ではなく)別に建設した例もあったはずです(仙台と長町はその関係じゃないかなぁ)。

 が、組織が大きくなりすぎて管理しにくくなったので分けた、という説明だと、あるいは労働組合対策とか、区内や管理局内の派閥がどうにもこうにもならなくてとか、そういうこともなくもなさそうです。

 一区の車両、蒸気機関車(やディーゼル機関車)と二区の車両(電気機関車)では、労務管理の条件も実際に違いそうではあります。それぞれで担当線区が亜幹線以下級・入換、と、幹線で別れて労働管理条件が大きく違うから、とは言いにくそう。

 分割した区と分配しなかった区について記した趣味者向けの本ってあるんですかね。

 こんな感じで、年少の頃に視野に入って来なかった労務・組合・人事・管理などの要素で当時の動きを見直すと(自分にとって)新しい知見が得られるかも、と考えたりもします。別に、その時代の輸送の状況の変化(貨物輸送品の変化、新幹線の開通による旅客列車の変化、旅客列車の電車化など)もそれぞれのケースで踏まえておかなければなりませんが。歴史のからの新解釈が時代の雰囲気を無視したただの「後付け」にならないように。

 富山二区には交流機EF70と交直両用機EF81の印象しかないなー。今も後継の組織がJR貨物にあるようですが、車両配置区なのでしょうか。