【紀元節】橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず | Blue Ocean ∩^ω^∩

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だって いつか必ず 終わりはくるんだから。




明治天皇御製(明治四十二年)

「橿原のとほつみおやの宮柱 

たてそめしより國はうごかず」

 


本日、紀元節でありました。所用が重なり、結局お参りなど何も出来なかったので、拙ブログにて皇室の弥栄を祈念します。


昨年と同様、八紘為宇について以下に書き留めておく。

 

橿原建都の令-八紘為宇の詔

 

日本書紀 巻第三

 

「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」

 

 

「我(われ)東に征きしより茲(ここ)に六年(むとせ)になりぬ。皇神(あまつかみ)の威(いきほひ)を頼(かがふ)りて、凶徒(あたども)就戮(ころ)されぬ。辺土(ほとりのくに)未(いま)だ清(しづま)らず。余(のこりの)妖(わざわひ)尚(なほ)梗(こは)しといへども、中州之地(なかつくに)また風塵(さわぎ)なし。誠によろしく皇都(みやこ)を恢廓(ひらきひろ)め、大壮(みあらか)を規搴(はかりつく)るべし。而(しか)して今、運屯蒙(ときわかくくらき)にあひ、民(おほみたから)の心朴素(すなほ)なり。巣にすみ穴にすむ習俗(しわざ)、これ常となれり。それ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義(ことわり)かならず時に随(したが)ふ。苟(いやし)くも民(おほみたから)に利(かが)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)はむ。また当(まさ)に山林を披(ひら)き沸(はら)ひ、宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮(しず)むべし。上(かみ)はすなはち乾霊(あまつかみ)の国を授(さづ)けたまひし徳(みうつくしび)に答へ、下(しも)はすなはち皇孫(すめみま)正(ただしき)を養(やしな)ひたまひし心(みこころ)を弘(ひろ)めむ。然(しか)して後に六合(くにのうち)をかねて以て都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや。かの畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)を観(み)れば、蓋(けだ)し国の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。」

 

 

 

 

 

神武天皇がなされた偉大な事業は、天照大神が下された御言葉に従って、平和で豊かな国づくりをなされたことです。神武天皇は、天照大神が瓊瓊杵尊の御降臨の際に下された御言葉のように、民のために正しい政治を行い、やがて「八紘あめのしたを掩おおいて宇いえと為せむ」(天下を一つの家のように)との「天業恢弘(てんぎょうかいこう)」(高天原を地上に実現させ、広めること)の理想を実現なさるため、地理的にも政治的にも重要な位置にある大和国原の橿原の地でこそ、日本を統一して国家体制を築き上げられると確信なさったのです。

 

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

 

 

 

 

「紀元節」(明治二十一年)

作詞:高崎正風 作曲:伊沢修二

 

一.

雲に聳ゆる高千穂の

高峯おろしに草も木も

なびき伏しけん大御代を

仰ぐ今日こそたのしけれ

 

二.

海原なせる埴安の
池の面より猶ひろき
めぐみの波に浴みし世を
仰ぐ今日こそたのしけれ

三.
天つひつぎの高みくら
千代よろづよに動きなき
もとゐ定めしそのかみを
仰ぐ今日こそたのしけれ

四.
空にかがやく日のもとの
よろづの国にたぐひなき
国のみはしらたてし世を
仰ぐ今日こそたのしけれ