前々回の続き。本興寺建立と数珠丸寄進でふしぎに思ったこと。 | 今日は出掛けてます。

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しんまいぼうず ヒロツグ



うちの御本山・尼崎本興寺は、室町時代の1420年建立されました。その経緯について。

尼崎領を治めていたのは室町幕府の重役・細川満元氏でした。

そこに、京都で本能寺の前身・本応寺を建てられた日隆聖人が西国への布教で尼崎にやってきました。

満元氏は跡継ぎとなる男子がなかなか生まれず、この日隆聖人に男子安産祈願をしてもらい、無事男の子が生まれました。

喜んだ満元氏は、日隆聖人にお礼として寺地を贈りました。それが大本山本興寺のはじまりとされています。

時は進み、ほぼ500年後の大正時代の1922年1月、日蓮大聖人の太刀・天下五剣の数珠丸恒次が本興寺に納められました。

数珠丸はその少し前、競売にかけられることになったところを刀剣鑑定家の杉原祥造氏によって発見。

『數珠丸記』(野村日政著)によれば、数珠丸がでた競売には外国人も参加しており、

海外流出の危険もあったそうで、杉原氏はかなりのご苦労をされ収集されたのでしょう。

そして杉原氏は数珠丸を身延の御山に返そうとしますが、話がまとまらず尼崎の自邸に持ち帰り、どうするか悩んでいました。

すると杉原氏の御母上は杉原氏に、

「自分にはなかなか子供ができず、

自邸の向かいにある本興寺の日隆聖人や鬼子母神に祈願していたところ、その御利益なのか

あなた(杉原祥造氏)が生まれた。そのご恩に報いるために本興寺に納めてはどうか」。

南無妙法蓮華経をとなえる法華の御本山である本興寺。その言葉もあってか杉原氏は数珠丸を本興寺に納めることとなるのです。

ほぼ500年前、本興寺が建立された経緯と数珠丸が本興寺に納められた経緯は、

どちらも子を願う親の思いに関係しているわけで、不思議な共通点というかご縁を感じます。

寺に限らずですが、教科書に載らない様な小さな歴史や周りのふとした言い伝えでも、

調べていくと不思議なつながりを感じるときがあるものだと思います。

さて

数珠丸が一般公開される

今年の本興寺虫干し会(むしぼしえ)まであと約2か月。

あと一回くらいは数珠丸についての話をブログにしたいなと思います。

最後になってしまいましたが、これまでの数珠丸に関してのブログを読んで頂いてからの方がこの内容は伝わると思いますので、

以前の私のブログをよろしければ見てくださいませ。

写真は前と同じく『本興寺の歴史と名宝』という本興寺発行の本の一ページ。