PC不調のため更新が少し遅れました。
今回はラジオでもお話しした、
織田信長がなぜ本能寺と関係があったかの一考察です。
前回のブログ(http://ameblo.jp/hir394/entry-12083710050.html)の写真を見て頂きながらだとわかりやすいかもしれません。
色々な説があり、
織田家が「南無妙法蓮華経」と書かれた旗印を使っていた時期があり、
織田家が法華を信仰していたという説があります。
しかし、それ以上に考えられることは信長が戦国武将であったからではないでしょうか
本能寺は1415年に前身となる本応寺が建ちました。ちなみに本能寺の変は1582年です。
法華宗本門流のお寺で本能寺やその兄弟寺である本興寺を本山とするお寺は
西日本においては瀬戸内のかつて港があった地域に分布していたり、
また大阪の堺にも大きな法華のお寺があったりと
商人の集まる地域に戦国時代位からある歴史あるお寺があり、今も存在します。
種子島・屋久島・口永良部島にも本能寺が建ってすぐの時代に法華のお寺ができました。
戦国時代に「種子島」と「堺」というと気付く方もいらっしゃるかと思いますが、
鉄砲という当時最新の武器が伝わり製造されていた種子島と、それを売買していた堺の商人たちです。
お寺というのは檀家さんや信者さんがいてはじめて成り立つもので、
商人たちがパトロンとなってお寺を支えていたわけです。
つまり、本山を中心とした各地のお寺のネットワークを利用して武器などの流通をうまく手配できたのではないでしょうか。
戦国武将とお寺の関係は色々な地域のお寺で見ることができます。
それはこのような理由によるところが多いのではないでしょうか。
現在の本能寺は本能寺の変後、豊臣秀吉によって現在の場所に移転しました。
今も本堂の裏には信長のお墓があります。信長の刀が納められているそうです。
これは本能寺再建後、信長の三男・信孝からの手紙(現在も現存)で信長の墓は本能寺に作るように、とされたからです。
お寺というのはただ拝む場所というわけではなく、そのような
教科書に出てくるような歴史のお話を身近に感じることができる場所でもあります。
古いお寺に行ったりした際は
ぜひそういった目線でも、観て頂きたいと思います。