法華経の序品の無量義経
これから説法始まるよォって感じですな🙂
お釈迦さまは『無量義経』を説いた後、静かに「無量義処三昧」という瞑想の境、全てを差別しないという瞑想の境地に入っていた。
これから素晴しい法が説かれるというプロローグ、端緒に他ならない。これより、お釈迦さまが大法である法華経を説こうとされている前段と受け取れる。
未来にも通じる三世にわたっての真理、法華経が説かれようとしていることを表わす。
序品は「如是我聞」で始まるが、その進行役となった方が、文殊師利菩薩と弥勒菩薩である。
※「如是我聞」仏教の経典の冒頭に必ず出てくることばで、「このように私は仏から聞いた」という意。 転じて、人から聞いたことをそのまま信じて疑わないこと。
文殊師利菩薩は、しばしば『三人寄れば文殊の智慧』といわれるように、智慧の徳を有した菩薩として有名な方である。
弥勒菩薩は、補処(ふしょ)の菩薩ともいわれる。お釈迦さまが亡くなられた後の次の世、五十六億七千万歳の後世に出現されて人々を救うことを約束された方である。
弥勒菩薩は、お釈迦さまの眉間の白毫から放たれた不思議な光、そして照らし出された情景について文殊師利菩薩に尋ねる。すると、文殊師利菩薩は「過去世において多くの仏が説法した時も、このような光景があった後に大法が説かれたのであるから、きっとお釈迦さまは妙法蓮華経という大法をお説きになるに違いない」と返される。
諸経ではそれぞれの能力に応じてさまざまに法が説かれているが、法華経はそうではなく、諸天、神々、男女、僧俗、見えるものと見えざるものを分けへだてすることなくストレートに法が説かれているとされるのである。
法華経は全ての人々、ありとあらゆる階層を対象とする、とその序章から宣言されているのである。