日本の南無阿弥陀仏は
亡くなってから極楽浄土へ引き上げてもらうための他力本願だとしたら
本場インドの
NAM MÔ A DI DÀ PHÂT
は、生きてる人の内なる仏を呼び出し活性化 浄化 日本で言う 穢れを祓う
と云う事なのかなぁ
雰囲気の気がそお感じた。
神社の気と似たような…
やはり伝播が異なるんだろうなぁ
今からでも音声のリズムを意識すると
同じ南無阿弥陀仏でも穢れを祓うと云う効力を発揮出来るのではないか
インドの撥音 リズムを知らなかった日蓮は
その扱いを否定したひとつなのではないだろうか?
まっ ひとつの考察として
ちなみに私は阿弥陀推進派ではありません
(o・・o)/
どちらかと言えば
幅広い意味で弥勒派です