”反解釈・反写真・反隠喩”で戦争やジェンダーといった多岐にわたる事象を喝破した、批評家、スーザン・ソンタグ。生誕から90年を迎えたスーザン・ソンタグが、「《キャンプ》についてのノート」で世に出て60年代アメリカの若きカリスマとなった時から「9・11事件」への発言で強烈なバッシングを浴びた晩年までの生涯とともに、ソンタグという知性がなぜ読者を挑発し続けるのかを描き出します。

 

「ヴァルネラビリティ(脆さ)」に関する思考に注目しながら、「解釈」によって対象を理解したつもりになることを何より嫌ったザスーザン・ソンタグの「反解釈」の意思に沿いながら、「本当のソンタグ」という決めつけを回避しつつ、彼女の思索に迫ります。

 

正直、読みやすいとか、分かりやすいとか言える内容ではありませんでした。文章も二重否定が多かったり、表現が曖昧な感じがする部分も多かったりと、時々、置いてけぼりにされるような感じがありました。

 

けれど、何かについて、「決めつけ」や「解釈」に陥らないようにしながら語ろうとすると、断定的な表現が難しくなり、下手すると内容がぼやけた感じになってしまうのかもしれません。そもそも、スーダン・ソンタグの思考自体が、"分かりやすさ"を拒否しているのかもしれません。「言葉で表現する」という行為自体が、言葉により世界を切り取る作業となる訳で、そこに何らかの解釈が入り込んでしまうもの。「解釈」を避けながら、言葉で何かを表現すること自体が、ほとんど不可能に近い行為なのかもしれません。

 

そして、膨大な量の情報が瞬く間に流れていく今の世の中では、情報伝達の手段が限られ、範囲や速度に制限が大きかった時代とは違い、様々な価値観の人々と接点を持たざるを得ないことになり、そこで、無益に争わずに済ませるためには、安易に「分かった」と思わないこと、簡単に何かを決めつけようとしないこと、「理解もできず何と定めることもできない物事」と共存していく懐の深さが求められるのかもしれません。

 

私たちは、その曖昧さ、不安定さに耐えられるのか。そうした曖昧さ、不安定さに耐える力こそが、これからの世界を生き抜くために必要な"知性"なのかもしれません。

 

20年前、2004年12月28日に71歳で亡くなっているスーザン・ソンタグですが、その思索は、今の私たちに大きな示唆を与えてくれるものと言えるでしょう。

 

 

 

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スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想/波戸岡 景太 | 集英社 ― SHUEISHA ―