表題作の他2編の小説が収められています。

 

「トロフィーワイフ」

美人でセンスも良くどんな場面でも如才なく振舞う姉、棚子に違和感を抱きながら、その姉の離婚騒動に巻き込まれる妹の扉子。夫の尚也に促され、扉子は、離婚したいと言い出し、学生時代の知人のところに転がり込んだ棚子の元に向かい...。

 

「善意」が必ずしも相手のためにならないのは、時に「正義」が「悪」よりも深く大きく人を傷つけるのと同じ。登場人物たちが、あまりに恣意的に「何が幸せか」というテーマに沿って動かされている感じは否めませんでしたが、心からの好意が、知らず知らずの内に相手を支配してしまう恐ろしさは印象的でした。

 

 

「ドナドナ不要論」

「ドナドナ」が嫌いだという智。近所で子どもが行方不明になる騒動が起きたり、実家では祖父が亡くなったり、妻の涼子が癌になったり...。智は、様々なできごとに揺らぐ家族のために奔走し...。

 

涼子の言動には怖ろしいものがありましたが、死が迫ってきている状況に陥れば致し方ないところなのかもしれません。色々ありながらも、何とかしようと奮闘する智。涼子の言動の背景にあるのは、彼女の悪意ではなく、恐怖や弱さといったものなのでしょう。そして、それは、彼女だけのものではないはず。

 

 

「されど私の可愛い檸檬」

夢も目標も持ちながらも、なかなか決断できず、協力してくれようとしている周囲を苛立たせてばかりの磯村。彼の人生は思いもよらなかった方向に進んで行き...。

 

自己決定とか自己責任とか簡単に言っても、実際、そう簡単なことではありません。自分で決めたようでありながらも、実は周囲の誘導が隠されていたりすることもあれば、周囲に振り回されているようでありながら確かな意思が秘められていることもあるでしょう。磯村の姿を見ると彼の周囲に同調してイライラしてしまう部分もあるのですが、でも、世の中、彼のような人生が普通なようにも思いますし、自分自身を振り返ってみても大差ないような気がしてきました。

 

 

3編とも、必ずしもハッピーエンドとは言えませんが、決してバッドエンドでもないように思われました。ほどほどの幸福と隠し味的な不幸。完全ならぬ私たち人間にとって、それが程ほどということなのでしょう。時に完璧を求めるのではなく、ほどほどに瑕疵を受け入れることが、周囲を赦し受け入れる余裕を生み、無用な争いを避けられるのかもしれませんし、そこに納得することで幸せを感じられるものなのかもしれません。

 

 

 

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『されど私の可愛い檸檬』(舞城 王太郎):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)