泉涌寺の塔頭のひとつで、泉涌寺山内にあります。

 

創建当初は伏見桃山(現在の伏見区桃山)にありました。

 

992年(正暦3年)、恵心僧都源信により建立された光明院が起源との説がありますが、伏見長者橘俊綱(藤原頼道の次男。歌人、風流人として知られる。)により開基されたとの説もあります。

「拾芥抄」(14世紀成立の類書)には"伏見寺 即成院 俊綱朝臣建立"との記載があります。

 

寛治年間(1087年~1094年)に、俊綱が山荘造営の際に、光明院を持仏堂として組み入れ、本尊の阿弥陀如来と二十五菩薩像を祀り即成院(伏見寺)という寺院になりました。

 

また、藤原宗忠の日記「中右記」の1119年(元永2年)6月28日条には、俊綱没後25年となるこの年、藤原宗忠が「臥見堂(伏見堂:現在の即成院)」で俊綱作の「迎接之体」(来迎引接。阿弥陀如来が諸菩薩を引き連れて亡者を西方極楽浄土へ迎え取る様を表した仏像。即成院に一部が現存する「阿弥陀如来及び二十五菩薩像」のことだと考えらえています。)を見て感動したことが記されています。

この阿弥陀如来及び二十五菩薩像は、菩薩像10体は当初のものですが、残りの菩薩像15体は江戸時代の補作に代わっています。阿弥陀如来像は平安時代の作ですが、他から移されたものと考えられています。当初から残る菩薩像10体は、11世紀末から12世紀初頭頃の作風を示し、橘俊綱の没した1094年(嘉保元年)頃の制作と推定されています。


「とはずがたり」には即成院に関する記載があり、1277年(建治3年)には、即成院に後白河天皇の第6皇女宣陽門院の墓があったことが書かれています。「康富記」(中原康富の日記)1442年(嘉吉2年)9月28日条には、宣陽門院が即成院を中興したと記されており、宣陽門院との関連が裏付けられています。


即成院は那須与一ゆかりの寺とされており、「続群書類従」所収の「即成院縁起」では、与一が光明院(即成院の別名)に参詣し、武運を祈願したとされています。本堂裏には与一の墓とされる鎌倉時代の石塔もあります。那須与一は半ば伝説上の人物ですが、「即成院縁起」には、宣陽門院が所領の下野国那須庄を即成院に寄進したことが記され、与一との関係が生まれたと考えられます。

伏見にあった即成院は豊臣秀吉の伏見城築城に伴い、1594年(文禄3年)に大亀谷(現在の伏見区深草大亀谷)に移転させられました。

明治初年の廃仏毀釈により即成院は1872年(明治5年)に廃寺となり、仏像は泉涌寺に引き取られました。1887年(明治20年)に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されて復興し、1899年(明治32年)には泉涌寺塔頭の法安寺に吸収合併され、1902年(明治35年)には、大門前から総門近くの現在地に移されました。1911年(明治44年)には阿弥陀如来及び二十五菩薩像が法安寺所有として重要文化財(当時の国宝)に指定されています。1941年(昭和16年)、「即成院」の寺号が復活しました。

 

 

御朱印

2018年(平成30年)2月14日拝受


光明山 即成院(そくじょういん)
宗旨:真言宗泉涌寺派

本尊:阿弥陀如来
所在地:京都市東山区泉涌寺山内町28

アクセス:東福寺駅(JR、京阪電車)徒歩10分

     京都市バス「泉涌寺道」バス停徒歩7分

 

 

公式サイト

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