1966年、小説家の長内みはるは、憧れの作家に同行する講演旅行で、白木篤郎と一緒になります。みはるは、最初は、篤郎の馴れ馴れしさ、図々しさに嫌悪感を抱いていましたが、徐々に篤郎に惹かれていきます。一方、白木の美しい妻、笙子は繰り返される他の女性たちとの情事に気づきながらも平穏な夫婦生活を保とうとしていました。そんな中で、笙子も、みはるだけは他の女性たちと違い篤郎にとって特別な存在になっていることに気付きます。様々な女性たちと交わりながら笙子とみはるの間を行き来する篤郎との関係が笙子とみはるの視点で描かれていきます。

 

著者は井上光晴の長女である井上荒野。父、井上光晴(本作の白木篤郎)と著者の母である光晴の妻(本作の白木笙子)、そして、光晴と不倫関係にあった瀬戸内寂聴(本作の長内みはる)をモデルにした作品。

 

著者は事前に瀬戸内寂聴に取材を行っており、瀬戸内寂聴も彼女の取材に誠心誠意応えたとされています。

 

ドロドロの愛憎劇になりがちな三角関係。けれど、意外なほどに、爽やかな読後感があります。

 

その背景には、白木篤郎に関わるみはると笙子の篤郎の弱さに対する温かな視線と自身の人生に対する矜持があるように思われました。みはるも笙子も、篤郎の身勝手さや弱さを感じながらも、それを受け入れ赦しているようです。そして、そんな篤郎との関係をみはるは自身の決断で断ち切り、笙子も自らの選択として維持していこうとしています。

 

この2人の"自分の生き方を自分で選択している"という意識が、2人をそれぞれの人生の主人公として成り立たせているようにも思われました。

 

そして、今の自分の状況が自身の選択の結果であるという認識。他人に自己責任を押し付ける風潮には違和感を覚えます。人生を決定づける大きな部分を人は自分で選ぶことができません。いつどんな状況の社会に生まれてくるか、どのような環境でどのように育てられるか、人生の基礎となる部分については基本的に選択権がなく、そこは運でしかありません。もちろん、その運を活かせるかどうかはその人次第という部分もありますが、そもそも人が自分なりの目標を持てたり、その達成に向けて努力したりする力を持つためには、幼い頃にそうした力が育まれる環境が必要なのです。そして、性格の基本的な部分や能力も選ぶことができません。そんな中で、必要以上に"自己責任"を求めることの酷さに気付き、人の不運や弱さを理解することは、幸せな人間関係を築くために大切な力なのかもしれません。

 

けれど、だからといって、自分を取り巻く悪い状況を生んだ原因を他人に求めれば自分の人生の主導権をその相手に渡すことになりかねません。自分の今の状況を”自分の選択の結果”と受け止めらる人は、自分の人生を自分の力で動かす力を持てるのではないかと思います。

 

不倫はルール違反であることは明白。けれど、ルールを守らなければならないと理解しながらも、正当なルールであると認識しながらも、時として、ルールを外れてしまうのが人間。いけないと分かっていることでもついついしてしまうことはあるわけで、それにより害を被る人を救う手立ては必要ですが、だからといって、罪を犯した者を徹底的に断罪しても誰も幸せになれないもの。そして、不倫があることで生まれる文学も芸術もあって、それにより何らかの力や慰めや楽しみを得る人も多いわけで...。

 

みはるも笙子も、篤郎を責めることで篤郎を追い詰め自身を疲弊させることより、自身も篤郎も幸せになる道を選ぶことができたのでしょう。

 

そして、みはると笙子の2人の視点で物語が描かれていきますが、篤郎の視線から見えた物語は登場しません。彼が、この2人の女性と生きることに対してどれだけの覚悟を持てていたのかも分かりませんが、一見、篤郎が女性たちを振り回しているようで、女性たちに振り回された人生だったのかもしれません。それが篤郎にとって幸せだったのか、不幸だったのか、本当のことは分かりませんが、みはるも笙子もそれぞれの幸せな人生を全うすることができたのではないかと思えてきます。

 

人を愛することの覚悟、自分の人生を歩むことの覚悟が感じられる作品です。

 

 

 

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