東京都、埼玉県、東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心として約280社分布する氷川神社の総本社です。

 

大宮駅東口から県道214号線沿いを歩くと、氷川神社への参道(氷川緑地)に出ます。そこから標識に従い、長い参道を歩きます。この参道にある二の鳥居は、明治神宮にあった大鳥居が1966年(昭和41年)7月22日に落雷で破損したため、1976年(昭和51年)4月5日に移築したもので、現存する中では関東最大の木造鳥居だそうです。

 

社伝では、孝昭天皇3年4月の創建とされています。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄、多毛比命は第13代成務天皇の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したとされています。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の"氷川"も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説があります。
 

平安時代後期には、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受けています。平貞盛が平将門の乱の際、戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰されるようになり、荒川流域に数多くの分社が建てられました。1180年(治承4年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、1197年(建久8年)には神馬神剣を奉納しています。

 

徳川家康が関東に入った後、1596年(文禄5年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営しました。江戸時代には幕府から社地300石が寄進されました。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していました。しかし、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、1628年(寛永5年)に西側に街道を付け替えました。それにより、参道沿いの宿や家およそ40軒が新設街道沿いに移転し、これが現在に至る大宮の町となりました。1667年(寛文7年)3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立しています。

1868年(明治元年)10月17日、明治天皇が当社を武蔵国の鎮守、勅祭の社と定めました。同月23日には大宮に行幸し、さらに28日に関東の神社の中で最初に親祭を行いました 。以来、皇室との縁が深く、例祭には勅使の参向があり、宮内庁の楽師による歌舞が奉納されています。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度参拝し、昭和天皇も皇太子時代の1917年(大正6年)11月12日と天皇に即位した1934年(昭和9年)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝、1967年(昭和42年)10月には夫妻で参拝しています。明仁上皇も皇太子時代の1963年(昭和38年)9月に参拝、1987年(昭和62年)7月と天皇に即位した1993年(平成5年)5月には夫妻で参拝しています。

明治初期には、神域である社有林が開かれ、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備されました。

1882年(明治15年)に社殿を改造。さらに1940年(昭和15年)に国費で社殿や楼門などを改築し、現在の姿になっています。

 

神社の境内は、見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に位置し、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられています。神社の南側に広がる神池は、神社の西側から涌き出た地下水が溜まったもので、かつては見沼の一部でした。神社に隣接する埼玉県営大宮公園は、明治期に神社周辺の森を取得して整備したもので、神社のある小山を見沼の入江が囲んでいた、という地形の特徴が分かります。

大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現在の中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいます。

 

埼玉県周辺から参拝者を集めている神社で、正月三が日の初詣の参拝者は、毎年200万人以上となっており、全国トップテンに入ります。

 

 

御朱印

2017年(平成29年)6月11日拝受

 

武蔵一之宮氷川神社(むさしいちのみやひかわじんじゃ)

御祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
      稲田姫命(いなだひめのみこと)
       大己貴命(おおなむちのみこと)

御利益:縁結び、安産、開運厄除、心願成就、立身出世など

近隣の駅:北大宮駅(東武アーバンパークライン)徒歩12分

       大宮駅(JR)徒歩15分

神札等の授与時間:8時30分~16時30分

 

公式サイト

武蔵一宮 氷川神社 (musashiichinomiya-hikawa.or.jp)