1957年、コネティカット州、ハートフォード。キャシーは、地域社会において中心的な存在で、あちらこちらのパーティに出かけたり、自分でも主催して人々を招いたり、周囲との交流もそつなくこなし、黒人のメイドを使いながら、一流企業の重役である夫を支え、息子と娘の2人の子育てに励んでいました。ところが、ある日、残業で帰りが遅くなると電話してきたフランクに差し入れをするため、キャシーがオフィスを訪ねると、そこには、若い男性とキスをするフランクの姿が...。

 

意外に自由でも平等でもないアメリカの姿が描かれています。

 

アメリカを象徴するように思えるニューヨークに自由の女神が聳え立つアメリカ。自由の国で、そこから、次々と先進的な考え方や文化が生まれていく...というイメージを持ってしまったりもしますが、アメリカっていうのも、意外に自由じゃぁない...というより、アメリカにもいろいろあって、その広い国土の中にはとても保守的で窮屈で、変化を嫌う地域もあって、その社会の中での理想的なあり方に近付くことに重きを置く人たちもいて、そのあり方に疲弊し、そこから逃れたくなってしまう人たちもいるのだということなのでしょうか。

 

もちろん、時代の影響も大きいとは思います。

 

社会問題も絡んでいます。本作で描かれている1957年は、その2年前に"モントゴメリー・バス・ボイコット事件"が起き、マルティン・ルーサー・キング牧師が社会的に大きな影響を与えるような活動をするになり、人種差別を撤廃しようという動きが盛んになっていってはいたけれど、まだまだ差別が色濃く残っていた頃です。理想の家庭の主婦であるはずのキャシーが黒人男性と2人きりで過ごすなどあり得ないという感覚だったでしょう。もっとも、例え、相手が白人男性だったとしても、夫も子どももいる身のキャシーが、成人男性と2人きりというのは、問題ありだったことでしょうし、あまりに不用心に行動しているような印象は受けました。

 

ただ、キャシーは、元から人種差別に問題意識を持っていたというよりは、少なくとも最初は、"誰にでも優しい良妻賢母"として、レイモンドに接していたように見受けられます。それまで守ってきた理想像を貫いた延長として、地域社会から排除されてしまう色恋沙汰に行き着いてしまったのはある種、皮肉なのかもしれません。

 

キャシーを良妻として成立させていた夫に去られ、心の頼りにできた相手を失い、経済的な支えもない中、彼女はどう生きていくのか、その点については、何も示されません。かなり厳しくなりそうなことが予測される彼女のこの先について、何も示唆されることなく、突然、物語は終わりを迎えます。あまりに唐突な幕切れで、正直、戸惑ってしまいました。

 

この当時は、同性愛に厳しかった時代だったと思うのですが、フランクとその相手が、特に問題なく2人で生活しているようで、その点は、不思議な感じがしました。

 

今の視点から眺めれば、人種差別も同性愛の否定も、無知や愚かさ、偏見のなせる業と捉えられるワケですが、当時の社会においては、むしろそれが正義だったのだと思います。だとすれば、今の私たちが正義と信じることでも、実は、愚かさからたどり着いた結論だったりすることがあるのでしょう。アメリカが、大量破壊兵器を隠し持つとして"成敗"しようとしたイラクで何も発見できなかったことを考えても、今の時代の人間が、キャシーを貶めようとする人々を笑うことはできないのだと思います。

 

本作は、1957年をその当時に映し出したように描いています。それを今の時代の私たちが観ることで、当時の人々が気付かなかった社会の愚かさに気づかされます。その視点を少し未来に持っていったら、今の時代の私たちの愚かさに気付き、進む道を修正することができるのでしょうか。

 

映像が美しかったです。幸福な家庭、地域社会を象徴するようなパーティの場面など、それぞれの身に纏うドレスの色のバランスも綺麗で、典型的な"古き良き時代"がそこにあるような感じでした。