私の尊敬するおばの話 | ジンジャーエールのブログ

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小さい時から生きづらさを感じて生きてきた。40代になり、適応障害と診断され1年近く休職。それから復職して心療内科の薬を飲みながら完全回復を目指している。日々いろいろな思考と闘いながら生きる。そんな私が日常をポジティブに生きるためのブログ。

私は恵まれていたけれど、自分の家が嫌だった。


父にも母にも甘えられず、言いたい事が言えず、何かに悩んでも相談すらしようとは思わなかった。父は子どもに無関心で、母も働いていたこともあり自分の事で忙しく、構ってもらえなかった。


ただ唯一の私の救いは一緒に住んでいたおば(祖父の姉)の存在だった。


父の母はすでに他界していたので、おばをおばあちゃんと思って生きてきた。


忙しい母に変わり私たちの面倒をみてくれたおば。

母と過ごすよりおばと過ごす時間が多かった。

母には言えないことをおばには何でも話せた。

私はおばが大好きだった。


おばは大正生まれ。若い頃から苦労してきた。

台湾に出稼ぎに行ったり、福岡で女中もしていた。

そして、島に戻ってきてからも結婚することなく家族のために必死に働いてきて、生涯独身だったおば。


祖父は気性の荒い人だったけど、おばはとても優しい人だった。

おばは自分の家なのに、女中のように過ごしていた。私達より早く起きて、仏壇に水やお茶を供え、御先祖様にお祈りをする。そして、毎日トイレ掃除、雑巾掛けをしてから、畑仕事に出かけ、夜は少し横になってから、アイロンがけ、ご飯は23時位に台所の床に座って食べていた。そして、一番最後にお風呂に入って寝て、また朝早く起きる、そんな生活を毎日繰り返していた。

同じ家族なのに、どうして一緒にご飯食べないんだろうと幼心に思っていたし、遠慮しなくてもいいのに、と思っていたが、きっとおばにはおばの生き方があり変えられないのだと思うようになった。


おばはどんなに疲れていても私の話を聞いてくれて、私はうれしくて楽しくて毎晩おばの部屋でおしゃべりしていた。 


おばは言葉遣いが上品で思いやりにあふれていた。苦労してきたはずなのに、愚痴や人の文句を聞いたことがない。年をとっても楽することを選ばないおばの生き方に、なんて強い女性なんだろうと尊敬の念で胸が熱くなった。


おばの顔にはもちろんシワがきざまれていたが、品のあるきれいなおばあちゃんだと周りに自慢したいくらいだった。


女性としての美しさをおばから教わった。


私の寂しさを救ってくれたおば。  


おばの家族に生まれこれて本当によかった。


何度もおばを思い出す。


今日もありがとうと、おばに祈り届けよう。