心が女性であれば 男性器がついたまま 女湯に入ったり

女子シャワー室に入ったりが許される。

 

日によって 男性になったり女性になったりする人もいるらしい。

ここまでくると 精神が不安定過ぎるだろと思ってしまいますが

それも 現代では許される。

 

要するに何でもあり。

 

カナダでは 全裸のパレードも まかり通る。

隠れて性器を見せるのは許されるけど 公衆の面前で性器を出してはいけない。

性器はいかがわしい物という価値観は いつ出来上がったんだろう。

 

こんな非常識なことを許していいのか!

と 怒りをあらわにする人たちもたくさん。

 

でもね

江戸時代の浮世絵には 銭湯は混浴だったよね。

私は 還暦を過ぎているので

昔の話になりますが

十代の頃 北海道の温泉では ホテルでも混浴でしたよ?

今でも 古い温泉では 混浴のところもありますし。

そりゃあ 混浴の中では いかがわしい思いを抱いて入る輩ももちろんいるでしょう。

 

これから あらゆる価値観がひっくり返ると言われているので

これもまた その一環の現象なのではないでしょうか。

 

何が常識なのか。

 

今まで常識だと思っていたものは 何だったのか。

 

こんな風に とんでもないと感じることが

価値観の大変化ということだから

これからも LGBTに限らず

とんでもないと 感じるものが次々出てくるのではないでしょうか。

 

成田氏の 老人集団自決問題もまた。

 

姥捨てが 美談とされた時代もあったらしい。

これは あくまでも 「楢山節考」の小説の中だけだったのかもしれないけど。

 

老人を捨てるとは何事だ。

 

でもその考えの先に

先端医療では 老人をどうやって殺さずに生かすかということに心血を注ぐ。

その結果 意味のない胃ろうとか 本人をただ苦しませるだけの医療に

家族がしがみつくようなことになるのは 悲しいと思っています。

何故自然死が許されないのか。

食欲が落ちて 意識がもうろうとしているところへ

どうして栄養を注がないといけないのか。

その結果 本人の身体がどんなに辛いことになるか 想像できないでいる。

何が常識なんでしょうか。

 

死にゆく老人を どうして安らかに死なせてあげられないのか。

 

姥捨ては

あの頃は 貧乏だったから 赤子でさえも口減らしされたから

今とは状況が違うけれど。

 

価値観がひっくり返るとは

こんなふうに 非常識だとか 非倫理的だとか

そんなふうに 最初は感じて憤ったりするものだと思うので

 

今の状況も

ただただ ひたすら悪化の道をたどっているとは

私は思えません。

 

LBGTも 支配層の思惑だと思うし

その背後には 思想の自由を振りかざした 分断の意図があるだろうけど

それすらも超えて

人間の意図を遥かに超える 宇宙の流れが起きていくような気がします。

 

だから

へええ どこまでいくんだろう。

と 私はついつい 面白がってしまいます。

 

個人的には 私自身は長生きすることにあまり価値を置かないので

どこぞの国で 開発された 自殺マシンも 普及したらいいんじゃないかと

思ってしまっています。

生き切ったと満足したら 高齢になって自分の人生を自分で終わらせるのもありかと。

 

生きるのが辛くて 人生を放棄すると

自分の魂にしっぺ返し食らうから それは勧めないけれど。