◆悟りへの道 その5 蜘蛛の舞、蠅の舞
「もしあなたが、この不可解な関連について、単に生半可である理解が、この先助けになるとでも思っておられるならば。ここでの問題は、理解など及ばない事象です。
あなたは、自然の中には、理解されないにもかかわらず、現実にある一致、まるで別様ではあり得ないように、そういったことがあることに慣れてしまっている一致が、すでに存在するということを忘れないで下さい。
しばしば私が関心を持っている一つの例を挙げましょう。
蜘蛛は、舞いながら巣を張りますが、その巣にかかる蠅が存在するということを知りません。蠅は陽射しの中で何も考えずに舞うように飛んでいて、蜘蛛の巣に捕えられますが、自分に何が生じるのか知りません。しかし、この両者を通じて、『それ』が舞っているのです。そして内的なことと外的なものは、この舞いにおいて一つなのです。
そのように射手は外的には狙うことなく、的に中てます。――私は、このことを、これ以上、うまく言うことは出来ません」
オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』(角川ソフィア文庫、平成27年12月、134頁)
もう一度、オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』より引用しました。前回の説明が、やや中途半端でしたので、すこしまとめが必要だろうと思われたからです。
蜘蛛が巣を張る時、何も考えずに糸を張っており、糸に蠅がかかるということを考えていません。蠅は何も考えずに飛んでいて、蜘蛛の糸に捕らえられてしまうということを知らないままです。しかし、ごく自然に見える力が働いて、蜘蛛の巣は蠅をとらえ、蠅は蜘蛛の巣に捕らえられます。蜘蛛も、蠅も舞っていただけなのですが、最後にその舞が合致します。
達人において、矢が的に中(あ)たるということは、こういうことだというのです。
この場合、蠅が矢であり、蜘蛛の巣が的であるともいえますし、蜘蛛の巣が矢で蠅が的であるともいえます。
的を狙って矢を射ているのではなく、現実世界に起こることと、精神世界に起こることが、自然に一つになることで、達人は的に中(あ)てるのです。日蓮が蒙古襲来を予言して中(あ)てたのも、この力です。
悟りというものはこのようなものであるということができますが、比喩で語るしかないものであり、言語化することは無理です。これが分かる人が少ないために、「悟りへの道その1」でお話した、魚の卵からたくさん稚魚が孵るが、成魚となれるのはごく少ないという格言が生まれてくるのです。無限の彼方を見つめる目、はるかかなたの仏陀にまで届くまなざしを、悟りと呼ぶのです。
これまでのまとめ
1、 魚の子は多けれども魚となるは少なし。
2、 蒙古国はいつ寄(よ)すべきと申せしかば、今年寄すべし。
3、 的が無限に遠くにあるように振る舞わなければならない。
4、 中(あ)たりということを頭から消せ。的とは仏陀である。
5、 蜘蛛は舞いながら巣を張るが、巣にかかる蠅が存在することを知らない。
天天快樂、萬事如意
みなさまにすばらしい幸運や喜びがやってきますように。
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