古志香歌集『Banksia バンクシア』 | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
粒あんが好きですが、こしあんも好きです。

 

  古志香歌集『Banksia バンクシア』

 

 古志香の第二歌集『Banksia バンクシア』(本阿弥書店、2024年1月16日刊)について述べる。栞文を除けば、一番早い歌集評になるかと思う。

 

 古志香(こしかおり)は、かりんの歌人である。お顔や作品はかなり昔から存じ上げている。本日、古志香歌集『Banksia バンクシア』が送られてきたので、歌に目を通し、略歴を見ると、新潟市(新津)生まれとある。私はずっとさいたま市(大宮)のひとだと思っていたので、これは新しい発見であった。古志香に対する理解が一段、深まったように思った。

 さて、肝心の歌に関していえば、この歌集はすぐれた歌集であると思った。そして好きな歌集である。その理由はこれから少しずつ述べていく。

 また、島田修三、奥田亡羊、小島ゆかりという高名な歌人たちが短い評論を書いていて、栞になっている。それに加えて、歌の理解に役立つ作者のあとがきもあるので、それらにも目を通したが、不思議に思ったことがある。これから、この不思議なことについて、述べていくつもりである。

 その前に、論の準備段階として、古志香の歌の特色から触れていきたい。まず五首ほど選んでみよう。

 

 火の舌が舐めてゆく過去晩秋の焚火のまへにながく屈めば

   

 きゆつと鳴るスリッパの裏ポップコーンは冷たき極月の床に潰れて

 

 映すこと課されドローンは飛び上がりまづ捉ふおのが地に落ちし影

 

 いくたびも止まりなほして蝶が産みし卵ごと柚子の幼木枯れたり

 

 しづかにしづかにパトカーは来てアパートの孤独死が処理された秋の日

 

 言葉が歌の中にしっかり詰まっている。言わなければならないことは、最大限きっちり言い終えている。これが古志香の歌の基本である。したがって、長いリフレインが登場しておもに韻律だけで読者を引っ張っていくような歌は、あまり見ることがない。

 一首目の焚火の歌であるが、「火の舌が舐めてゆく過去」という表現は簡潔ながら思いが伝わってくる。その先に、「ながく屈めば」という結句が来る。私なら、「ながく」という言葉はここでは避ける。説明になりかねないからである。しかし作者にとって、長い時間そこに屈んだということは外せなかったのであろう。ここが重要な点である。

 二首目のポップコーンの歌、「きゆつと鳴るスリッパの裏」という出だしは、秀逸である。しかしポップコーンについて、歌は「冷たき極月の床に潰れて」と終る。極月(ごくげつ)というのは、12月のことで、歳の終わりだ、いよいよ最後の月だという思いがわく言葉である。ポップコーンが、つめたい12月の床のうえでつぶれているとまで言い切らなければならないのだろうか。「きゆつと鳴るスリッパの裏クリスマスにこぼしたポップコーンが床で」というような持っていき方もあっただろう。しかし、作者は冷たい床につぶされているというところまで言い切らないではおれない。こういう手を抜かない表現意識が、古志香の歌には見られる。あらかじめ言っておくが、私はそれが嫌いではない。

 三首目のドローンの歌、何かの撮影を命じられたドローンが飛び上がるとき、まず自身の影を撮影したという。「おのが地に落ちし影」という結句は、いろいろなことを物語るのであり、地に落ちるという言葉は最低の自分という自虐的意味を含みうる。古志香の歌にはこういう、自虐的なまなざしがある。地に落ちると言わなくても、「地に映るおのが影を写しぬ」という結句もあり得るからである。

 四首目の柚子の歌は、「いくたびも止まりなほして蝶が産みし卵」という部分だけで、一首になるし、「柚子の幼木枯れたり」という部分だけで、これも一首の歌になるところを、ぎゅうっとひとつにまとめたので、ちょっと窮屈な感じがする。特に、「幼木枯れたり」という部分であるが、歌全体の要請としては、幼い木である必要はないように思える。しかし作者は幼いということを言わねばならなかったのである。ここが重要な点である。

 五首目、歌集の冒頭歌である。先ほどリフレインの歌が少ないという指摘を行ったが、この歌には、短いながら「しづかにしづかに」というリフレインがある。秋のある日に、アパートで孤独死があって、それをパトカーが来て処理したというのである。パトカーはサイレンを鳴らさずに来たのである。死体が腐って臭ったり、アパートが事故物件となったり、様々なことがあるのであろう。「おくりびと」という映画を思い出したが、警官が最終処理をするわけではないと思う。孤独死した人に何の罪もないのだが、サイレンを鳴らさずやってくるパトカーというところに、孤独死は迷惑だという社会的なまなざし、何か理不尽な視線が感じられるのである。

 さて、ここまで任意の歌を五首ほど引用をしてみたのだが、そこから見えてくるものがある。

 

 古志香は、様々なものに自己を仮託している。アパートに孤独死をしている人間は自分である。いくたびも止まりなおして卵を産んだ蝶は自分である。卵ごと枯れてしまった柚子の幼木は自分である。

 撮影を命じられて、一生懸命働いているドローン。カメラの性格上、まず自分の影を撮影してしまって叱られているドローンは自分である。

 年末の冷たい床に潰されているポップコーンは自分である。

 焚火のまえにながいこと屈んでいるのは自分である。いつも屈んだような姿勢を長くとらされているのである。そして頭の中を横切っていくのは、しばしば理不尽な扱いを受けた思い出なのである。ある種の自虐性、過酷な環境、周囲の無理解、理不尽なまなざし。

 この歌集の骨格となる情念が、だんだん見えてきたであろうか。

 

 島田修三、奥田亡羊、小島ゆかりという歌人たちの歌集評では、「静かな抑制」「痛み」「悲しみ」「孤独の深淵からの離陸」という言葉がキーワードとして挙げられている。しかし三人の批評には、この世界の理不尽さというものが、しっかり捉えられていないように思われる。きれいごとで終わってしまっているという印象がある。古志香の世界は、そんなに単純に片付かないのである。

 最初に、「不思議だと思った」と私が述べたのは、最も大切なキーワードをだれも指摘していないという点である。

 この歌集の重要なキーワードを一つ挙げるなら、「怒り」である。それは今まであげてきた、理不尽さに対する怒りなのである。それは幼少期から存在しているもので、古志香の一つの骨格をなしているということに、この歌集で初めて気づかされた。「怒り」という言葉は、三歌人の歌集評にもないし、作者のあとがきにもない。しかし、まずこの根深い「怒り」を見通さなければ、この歌集を理解したことにはならない。古志香は、この怒りをまだ乗り越えてなどいない。

 

 タイトルのバンクシアとは、何だろうと思ったが、花のバンクシアのことらしい。歌集のカバーがその花をもとにしたデザインになっている。このカバーは小川邦恵担当で、タイトルの文字が少しわかりにくいが、絵はとても美しい。上品で控えめである。

 バンクシアはオーストラリアが原産の木で、花は筒状のスパイクと呼ばれる形をしている。それにしても地味な花を持ってきたものである。この木の種子は、非常に固く、山火事に遭って初めて種子が飛ぶ。そして雨が降ってやっと発芽をする。これが咲いているということは、そこに山火事があったのである。元の木は、燃えてしまったのである。山火事で元の木が燃えなければ、種は沈黙したままなのである。ひとが種を植えるときは、この山火事を経験させるため、まずフライパンで煎ったり、熱湯に浸したりする。何か、踏んだり蹴ったりで発芽する植物である。何とすごい木であることか。

 

 

 バンクシアの花言葉「心地よい孤独」やせこけた地によく育つとふ

 

 これがタイトルとなった歌である。バンクシアは地味な花だが、理不尽な環境であるゆえに、屈強な種子を持ち、やせた土地でもよく育つ。地味に見えても、花はひどい環境をのりこえて、深い味わいをもっていると作者は言いたいのである。作者がこの花に自己を仮託しているとすれば、まず、理不尽な環境への「怒り」があることを見のがしてはならないのである。そして歌には、その「怒り」のなすすべのなさや、虚無感、そして「怒り」を反転させた自己肯定の試みが見えることも指摘しなければならない。踏んだり蹴ったりでやっと発芽するバンクシアを、甘く見るなよという思いがはっきりわかる。いつもそうなのではないが、「心地よい孤独」という言葉は、「心地よい怒り」という言葉に変換できる場合があるのである。

 

 フレンチトーストその単調を侮れば最後に蜜の濃さに噎せたり

 

 荒き簓(ささら)となるまで叩く冬ごばう傷負ふものに味ふかく浸む

 

 呼びかけてはならず雪ふる窓を見るしづかなる猫、毅然たる背よ

 

 地味だとか単調だと侮られてしまうもの、たたかれてしまうもの、そうしたものは、それだからこそ、深い味わい、濃密な味わいを持つ。寒い雪を見ている猫は、その寒さを感じつつ毅然としている。フレンチトーストにも、ごぼうにも、猫にも、作者は自己投影している。その背後にある「怒り」を、見逃してはならない。もしこの歌集が、静かな、孤独な、単調な歌集だと早合点してしまっていると、最後に残る「怒りの濃さ」に噎せてしまって驚くのである。

 作者の持続する「怒り」に、そこはかとない余裕が生まれる瞬間もある。それは例えば、亀を考える時である。

 

 着ぶくれが嬉しくてゆく秋の川かめは沈んでまた浮いてくる

 

 ふところ手亀はすることなけれども懐手する小春日の亀

 

 侮れるウサギに敬語もて返す「うさぎとかめ」のかめさんぞよき

 

 二首目の歌には、「懐手」がリフレインとしてくりかえされる。ストレスを加えてくるうさぎにも丁寧に返答する亀に、作者はやはり自己投影しており、「怒り」とともに、このように平静であらねばという思いを吐露しているのである。こういう余裕のある場合もあるが、ぎりぎりのストレスをどうしたらいいのか、怒りのやり場に困ることもある。

 作者を襲うストレスやそれに伴う怒りのうち、最も強いストレスを生んでいるのは、母との関係であろう。これはなかなか免れがたいものである。

 

 弟は「さん」づけわれは呼び捨ての母の日記に動悸はじまる

 

 母との関係はこじれている。母は、面倒を見ている作者を差し置いて、よそに住む弟のほうを大切にしている。弟はそれを当然と心得ている。こういう理不尽さへの作者の怒りは激しい。こういうひどい親だから、自分の人間としての味わいは深くなっているのだというフォローの仕方では、このもっともな「怒り」は鎮められないようである。その母の死を経て、この先どうなるか、それはこれから作者の第三歌集へと展開する重要なポイントとなるだろう。母が亡くなって弟は仏壇を捨ててしまったというが、信じがたい話である。

 古志香の怒りと自虐性が見える歌として、次のような作品もあげておこう。

 

 われにラブレターくれしもの好きいくたりか優しい順にふたり死にたり

 

 自分にラブレターをくれた何人かの物好きな男たちがいるという。自虐的であるのは、「物好き」という表現である。いくたりというのはわからないが、仮にここでは3人いるとしよう。その人たちは優しい男たちで、いちばんやさしい男と、二番目にやさしい男が順に死んでいる。自分の苦労や怒りを理解してくれるのは、おそらく世の中で苦労を経験したやさしい人間だけであり、やさしいゆえに大きなストレスを抱えて、ストレスに耐えきれずに死んでいくというのであろう。3人目も、そろそろ危ない予感がする。こういう理不尽さに対する怒りを、古志香は忘れたことはない。この歌集が「怒りの歌集」であると私が断じるのも、そうした理由からである。このとき古志香のなかでは、やさしさの本質と、怒りの存在が溶け合っていると言えるかもしれない。

 最後に少し個人的な話をしておきたい。

 

 ストレス性湿疹保有者ナポレオン夜ごとに浴びきオーデコロンを

 

 この歌、確か「かりん」で見かけて、作者にどこでそれを知ったのか尋ねたことがある。私は横光利一の研究者であり、横光利一には「ナポレオンと田虫」という作品がある。ナポレオンが疥癬で苦しむという内容である。過去に私は、ずいぶんナポレオンの資料を探したが、どこにもそういう事実を発見できなかった。しかし横光は何かの資料でそれを発見していたのである。古志香はすぐに答えてくれて、テレビ番組の特集でそういう情報を得たということであった。どうもナポレオンの疥癬説はある程度、信憑性のある話であり、私はその話を論文にするために今も骨折っている。気取ったポーズをとって我慢しているが、ナポレオンはとにかく全身かゆかったらしい。ナポレオンは、偉人であり、ストレスなど征服しているように見えて、実は毎日かゆくて大変だったのである。

 もちろん私の論文などはどうでもいいことで、ストレスで全身かゆくなるナポレオンに、興味を寄せるところが古志香らしい。これは歌集からの印象に過ぎないが、どうも古志香も、ストレスからすらりと身をかわすことが苦手なようである。それゆえに、からだのかゆいナポレオンに自己を仮託しているのである。

 とにかくこういうことを話している私自身が、身をかわすどころか、いつもストレスで満身創痍になっている情けない状態なので、上から目線で物を言っているのではない。そしてこの歌集が好きだと私が言う理由も、そこにあるのである。

 以上、本日歌集を受け取って、さっそく読んで、拙速ではあるが、感じたことをとりあえずここにメモした次第である。私の批評などはいつも誰も読まないし、読んでもまず理解できないと思うが、たぶん作者だけは、あるていど参考にしてくれるであろう。そのことは私には、まったく疑いのない事実である。

 

 素敵な歌集の御出版、おめでとうございます。

 

 

  

 

皆様のご健康をお祈りいたします。

   そして皆様に、すばらしい幸運や喜びがやってきますように。

      いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。