鈴木加成太第一歌集『うすがみの銀河』について | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
粒あんが好きですが、こしあんも好きです。

 

  鈴木加成太第一歌集『うすがみの銀河』について

 

 鈴木加成太第一歌集『うすがみの銀河』(角川書店、2022・11)が届いた。

 一度さっと読んでみて、もちろん感心することが多かった。若々しい言葉の飛躍の中に、静けさと伸びやかさと孤独とが同居している。宇宙感覚ももっており、実に魅力的である。

 若いがすでに著名な歌人で、歌壇にも認められているし、この歌集は大きな賞を受賞するだろう。

 ここで私が何かいうこともないと思う。

 ただ、私にしか言えないこともあると考えなおし、とりあえず気づいたことをメモしておく。

 

  

 

 私は鈴木加成太本人のことをよく知らない。よく知らないまま、いつも作品を読んでいる。そういう読者である。とにかく20代の若さであるらしいが、その人となりというものもよくわからない。そのことを前提として、まず記しておく。

 ただ私の家は「かりん」の毎月の会員詠草の集積所となっており、鈴木加成太の作品が私のところに送られてくる。律儀であり、締め切りに遅れたりすることはない。

 まずハサミで封を開けて、私が鈴木加成太の作品を読む。詠草に関しては、私が最初の読者である。

 鈴木加成太の作品は手書きである。字はどちらかといえば小さめで、読みやすいが、やや癖のあるその筆跡も暗記している。封筒などもいつも同じものを使っている。宛名の書き方も同じである。私は原稿ににじむ、匂いのようなもの、本人につながる独特の感触のようなものを知っている。

 こうやって、鈴木加成太の原稿を読むときには覚悟がいる。イメージでいうと、溶接工のような気持である。激しい火花に対して防護マスクが必要だという感覚である。

 

  

         (写真はインターネットのマスク販売サイトからお借りしました)

 

 鈴木加成太の作品はそのぐらいインパクトが強い。私が光る原稿のために、防護マスクを必要とする歌人は、私の担当する欄でいうと、光野律子をはじめ、何人かいるが、ごく少ない。

 ただ、鈴木加成太の歌集を見ると、原稿にあった体臭のようなもの、人間としての澱のようなもの、個性の味わいのようなものがかなり掻き消えているようにも思われる。

 活字になり、歌集に整理されているので、もちろん当たり前の話であるが、ほとんど防護マスクなしでも読めるような清潔さになってしまったケースがあり、そういうものなのかという驚きがあった。歌の質は保たれているが、原稿にあったあのねばりつくような得難い個性の質感が、いかにももったいないように感じる。

 作品はとても高いレベルにあるが、鈴木加成太は一度原稿をパソコンなどで打ち込んで、印字して、それを眺めてもう一度フィードバックして推敲するという作業を通して、活字にも体臭が香るような方策を発見するのもいいのではないかと思う。これは自分でもとても難しい話であるが、重要なポイントなのでメモしておくのである。

 

 

 

 さて、個々の作品については、多くの人が語るであろうから、ここでは例を上げるために、あまり取り上げられないであろうページの数首について、ざっと考えを述べておこう。見開きページを写真に撮って掲載する。

 

 一首目、収集車に、竹ぼうきが逆さに立てられているという写生が、見事である。ここで私はもうやられてしまう。収集車が散らかしているという設定は構図が単純であるが、竹ぼうきの描写が的確なので、一首が生きている。よくまとまった歌である。ただし、この歌を読むと、鈴木の体臭のまざった手書きでこれを読みたかったなという感想が浮かんでくる。活字で読むと、もう一歩、言葉の連なりに、何か体臭につながるものが欲しい気がしてくる。的確な写生、的確なパラドクス、その上にもう一つかすかな体臭が欲しいというぜいたくな要求をしたくなってしまう。これは自分でも相当に難しい話を、強引にしているのである。

 

 二首目、最後に沙羅双樹をもってくるところ、舌を巻くうまさである。こういう言葉が出てくるから、防護マスクが必要になるのである。ほかの歌にも表れているが、非常に耳のいい歌人である。

 

     祗園精舎の鐘の声  
     諸行無常の響きあり
     沙羅双樹の花の色
     盛者必滅の理(ことわり)をあらはす

 

 『平家物語』を引く必要もないだろうが、沙羅双樹が出てくると、音としては鐘の音も響いてくる。沙羅双樹は釈迦入滅の時に四方を囲んでいた木であり、仏教の三大聖樹の一つである。日本ではたいてい夏椿のことを言う。

 夏椿はどぶに落葉はしない。しかし「さら」というさらりとした音感をうまくとらえて、歌は聖なるものを感じさせる。ドブ「さら」いの「さら」であろうが、こういうきらめきは、私にはまぶしいのである。

 78ページの歌も、重要な抒情的作品であるが、深部でここに絡んでくるのだろうか。

  七夕笹を母と担いで帰りし日 うすがみの銀河がさらさらと鳴る

 

 三首目、ここで発想が急に宇宙へと飛ぶことにまた舌を巻く。のびやかで自在である。食欲で宇宙とつながるとは、実に恐れ入った。ただし、なんとなく、「秋」という言葉がとってつけたようにも思われてくる。食欲の秋ともいうし、ここは一連として、「秋」を肯うことができるが、欲を言えば「秋ゆく」はもうひとおし欲しいところである。

 

 四首目、ここに掲載した中で一番好きな歌。月面と仮設トイレとはどうして生まれたイメージであろうか。私はあわてて防護マスクを探す。油断すると目を焼かれてしまう。工事現場と月面とは荒涼さで確かに重なり合う。夜の工事現場(発掘現場)は、『銀河鉄道の夜』が背景にあるのだろうか。

 ただし、歌を活字で読むと、「すさまじき」と、「荒涼」が重なってだめ押しという感じがする。少し古典から引用しよう。

 

 すさまじきもの。ひるほゆる犬。春の網代(あじろ)。三、四月の紅梅の衣(きぬ)。牛しにたる牛飼ひ。ちご亡くなりたる産屋(うぶや)。火おこさぬ炭櫃(すびつ)、地火炉(ぢくわろ)。博士のうち続き女児生ませたる。方違(かたたが)へにいきたるに、あるじせぬ所。まいて節分(せちぶん)などは、いとすさまじ。

 

 現代語の語感とはずれるが、こういう『枕草子』の一節を思いつつ書いているのであろう。しかしここは例えば「荒涼」より「すさまじき秋の静けさに似て」というような方向に着地させることもできるのではないか。ただし、繰り返すが、月面の仮設トイレというイメージだけで、もう完全に忘れがたい歌となっている。鈴木加成太、恐るべし。

 

 五首目、レンブラントと蝕の月とは、これもまた防護マスクが必要である。不思議に釣り合う言葉たちである。ただし、「夜警」は昼の様子を描いたものが、ニスが黒くなって夜のように見えるだけである。椅子も見えないし、月も見えない。私はアムステルダムで「夜警」をしっかり見てきた人間である。歌の最後の方が、魅力的な言葉の衝突であることは称賛するが、うまく読み解けない。「夜警」から何を引き出そうとしたのだろうか。暗さを言いたかったのであろうか。いずれにせよ、月はこの歌集のキーワードの一つになっているので、評者も「月」にはもう少し精細な分析をすることが必要になるところであろう。

 

 六首目、さすがにうまい歌である。押しボタン式信号であり、これまでみんながボタンを押してきた。そして光は青に変わる。風の街という設定もよい。押しボタン式信号は、ボタンを押さないといつまでも赤のままである。歌の形としてはボタンを押しているだけだが、指紋を重ねているという把握は、動的であり、同時に指紋は静的な情感を呼び起こす。そして何よりも「風」が抒情的なのだ。風が指で押しているというような幻想も混ざってくる。

 69ページにこういう歌もある。やはり動と静が描かれている。これもいい歌である。

  はつなつの水族館はひたひたと海の断面に指紋増えゆく

 

 あと一首、これは作者に一つ質問をしたい。

 15ページの歌について、これは『銀河鉄道の夜』のジョバンニを描いたものだろうか。

  冷蔵庫にトマトのスープ冷えて待つこの夏も活字工のしずけさ

 作者の宇宙感覚がどこから来ているのかという問いに、宮澤賢治ではないのかという仮説を立てておきたく思うのである。賢治かと思う歌はほかにもいくつかある。

 

 以上、駆け足で触れてきた。原稿を自筆で読んでいると鈴木の個性にみな統一されたように包まれて、体臭がにじみ出てきて、上記の歌も自然に肯定できるのだが、歌集に整理された状態で読むと、妙に客観的な眼になって、もちろん歌の魅力は輝かしいものの、私の趣味から見て修正可能かもしれないという部分が目に付いてくることがある。これは不思議な発見であった。このあたり、若い鈴木加成太なら、これからいくらでも言葉を錬成し、熟成して、深めていける部分であろう。大いに期待している。

 歌集の歌は、みな、それほど上質な歌なので、興奮したまま、気づいたことをひとこと書いてみたくなった。実に勝手なことを書き連ねた。そんな覚書である。大半は、実は自分の作歌手法を語っている形になっているし、天才の生原稿を読むという贅沢な体験から話をしているので、公平な批評にはなっていない。御海容ください。

 

 かがやかしい第一歌集の上梓、おめでとうございます。


 

 皆様のご健康をお祈りいたします。

   そして皆様に、すばらしい幸運や喜びがやってきますように。

    いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。