学生たちへの呼びかけ――「山椒魚」を研究するために――
1、「わからない」はチャンスである。恥ではない。
わからない自分を責める必要はない。それは自分のせいではない。作者がわざとわからなくしてある可能性、あるいは社会的通念に縛られた読者が集団的に分からないままでいる可能性がある。そこを分析せよ。
もし作者の嘘が発見できれば、その嘘の背後には物語が存在する。それは最も重要な物語である。そして見逃してはならない物語である。
(例)花が咲いて、実が実って、そのあとには花粉が散るということはありえない。
ここでゆがめられているのは、生殖に関するイメージである。人間ではないもの、山椒魚や花を見て、われわれはすぐにエロスを想起しにくい。また生殖について語ることは、タブーとされている風潮があり、我々に抑圧を与えている。
2、昭和4年に発表された「山椒魚」には「童話」というサブタイトルがついていた。
童話的な装いで、井伏鱒二は読者に嘘をついている。生殖的要素がねじれてしまい、表面的にはエロス的なものがカモフラージュされている。
3、テキストがたくさんある、バージョンがたくさんある場合はチャンスである。
エロス的要素を考えてみよう。天敵が仲良くなる「あらしのよるに」をとりあげる。
「あらしのよるに」はNHKでアニメーション化されたとき、メイがメス(女性)に設定された。狼男と女性、美女と野獣という物語になっている。
このメイの性的なあいまいさが重要になる。
映画版バージョンでは、そこははっきりしていないが、メイの顔や様子に女性的な要素が大きい。映画でメイの声を演じたのは成宮寛貴。成宮は、もともと新宿二丁目出身で、ホモセクシュアル的な魅力で人気がある俳優である。オオカミとヤギの関係に同性愛な結びつきの匂いを混入させるために、起用された。男か女かわからないように声をあてたと成宮は自分でも語っている。
4、「山椒魚」は小学生から高校生まで、多くの生徒たちが読み、学習している。
国語の教員になる人にお願いする。エロス的要素を教育の場で教える必要はない。しかしテキストの矛盾やねじれに気が付いてしまう生徒が、必ず存在する。そうした生徒を押しつぶすようなことはせず、その生徒の意見も尊重しつつ、授業を継続していける実力を、身につけてほしい。多様性を認めること。隠花植物に花は咲かない。生徒がそれに気づいたら、誉めてあげよう。生徒が自分と違う意見を持っていたら、怒って生徒を黙らせる教師には、なってはいけない。自分に自信のない教師たちがそういう行為を連発する。
井伏鱒二「山椒魚」論の教室では、こんな高度な話をしています。
