久しぶりに「石の宝殿」(生石神社)を参拝 | 日野智貴の雑感いろいろ

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龍野高校生時代に使っていたブログですが、ちょっとスピリチュアル系を主に色々とリブロク中心に再開してみようかな、という感じ。

 先日、中学時代以来久しぶりに兵庫県高砂市の生石神社を参拝しました。

 この神社は「石の宝殿」と呼ばれる巨石建造物が鎮座されていることで知られています。この石、大きすぎて写真には収められません。

 播磨を開拓された神様である大国主命と少彦名神に日頃のお礼を言わせていただきました。

 石の宝殿の由来には諸説あります。

 『播磨国風土記』には「聖徳王御世、弓削大連所造之石也」と記されています。「弓削大連」と言えば物部守屋です。

 しかし「聖徳王」の意味が不明瞭ですが、仮にこれを「聖徳太子の時代」とした場合、聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋は既に殺されています。

 また「聖徳」を年号と解釈して古代逸年号の「聖徳」(西暦629~634年、註1)とすると、余計に物部守屋の時代からは離れてしまいます。

 そうしたことからここにおける「弓削大連」は「物部守屋では、無い」と判断した方が適切でしょう。ならば弓削大連が一体誰であったのか、が問題になると考えます。

 ところで「弓削」と言うと道鏡を連想される方も多いのではないでしょうか?

 『続日本紀』には道鏡の祖先が「大臣」であったことが記されており、通説ではこれを物部守屋のこととしていますが、「大臣」と「大連」とは異なります。

 あくまでも私の作業仮説ですが、倭国(九州王朝、註2)において弓削氏から「大連」だけでなく「大臣」をも輩出したことがあったのではないか、と考えます。

 そうすると弓削氏は守屋の失脚後も(大和朝廷側の記録に残っていない、又は、削除されただけで)倭国の中から「大連」や「大臣」を出せていたということになり、『播磨国風土記』の記述とも矛盾しません。

 なお、古田学派の中での石の宝殿についての先行研究は、竹村順広さんの「放棄石造物と九州王朝」があり、そこでは斉明天皇の土木工事と関連して考察されています。

1.朝鮮の歴史書『海東諸国記』に記載のある年号。日本国内でも「舒明天皇の時代」の年号として使われている。倭国年号(いわゆる九州年号)に含める意見もあったが、国内の倭国年号の最も古い史料である『二中歴』には記載がない。

2.私は大和朝廷の前身は倭国の中心的な政権では無かったと考えるが、西暦5世紀や西暦7世紀後半を含む倭国の朝廷が一貫して九州内にあったというのは、大和朝廷の前身が近江や河内に遷宮した記録があることと比べても、あり得にくい想定であると考える。特に西暦7世紀後半の倭国の朝廷は前期難波京や第二次大津宮、藤原京にあったと考えるべきではないか。なので「九州王朝」と言う呼称が適切かは議論の余地があるが、「いわゆる九州王朝」と考えていただきたい。