ひまわりZOOM講演会 「僕が心の扉を開いたとき」「軽度難聴の課題と支援~体験談から考える~」
皆さま 今回もたくさんの方々のご協力を得て、1年ぶりにZOOM講演会を開催することができました。
参加申し込みは43人(保護者・当事者・教育関係者)。沖縄・愛媛・兵庫・大阪・京都・東京から!!
講師、テクニカルサポート・スタッフを入れると全員で61人です。
手話通訳だけでなく、字幕については昨年の反省を生かして、大阪府中途失聴・難聴者協会
(吹田市障がい福祉室に依頼)からパソコン通訳4人の方に来ていただきました。
これできこえる人も・きこえない人も(ろう・難聴者・中途失聴者)、皆さんが共に学び合える準備が整いました。
朝の12時に集合して、
パソコン設定・字幕設定・スクリーン、などの準備に入りました。
講演内容はノート原稿を字幕として使用し、
挨拶や質疑応答は字幕担当スタッフがパソコン通訳4人の方と連携してキャプションラインを使って準備を進めました。
1:10~ 入室。ZOOMで知ったお顔を見る度に嬉しくて手を振ってご挨拶をしている内に盛り上がってきました。
1::20~ ZOOM練習会の開始。テクニカルサポートの井上さんの素敵なリードでマイク・顔出し・チャットの練習が始まりました。
参加者確認をした後いよいよ本番!!
14:00~ スタート パソコンの前での挨拶はやはり緊張します。中途失聴の私は自分の声が全く聞こえません。
緊張と興奮でついつい大声になってしまいますので、肩たたき役スタッフさんに合図をしてもらいながら頑張りました。
会の流れと時程を説明して、いよいよ講演の始まりです。
「僕が心の扉を開いたとき」のテーマで明石慈英さんと北村陽さんにお話して頂きました。
始めは明石慈英さんです。
まず、自己紹介です。
明石さんは4級で、きこえとしては70dbほどだそうで、
静かな環境で、1対1であればある程度はきこえるくらいです。
幼稚部から中学部までは大阪市立聾学校(現大阪府立中央聴覚支援学校)
聞こえないとわかったのは3歳の3月で、お母さんがあわてて聾学校の門をたたき、
4月から通えるようになったそうです。
幼稚部,小学部、中学部と手話のある環境で伸び伸び勉強や遊びを楽しまれたのですね。
明石さんの素敵なおおらかさは、この環境から生まれたのかな、と私たちは思いました。
高校は地域に進もうと思った理由は3つ。
①ろう学校以外の世界に行き、刺激が欲しかったから。新しい挑戦をしてみようと考えた。
②行きたい大学に行くための学力を身につけたかったから。
「先生になりたい」という夢をもっていて、教育大学に進みたいなぁと考えていたので、
そのための学力をつけられる高校に進もうと決めたそうです。
③中3の夏のオープンスクールで、国語の好きな「自分に合ってる!」と思える高校を見つけたから。
高校に入るとき…
入学式の前日、「明日から一人なんだ…やっていけるかな」ととても不安で怖くなったそうです。
高校生活では、座席・連絡・英語・学級・体育・情報・家庭科・放送について具体的なお話を聞きました。
座席は3年間ずっと同じ場所 一番前の教卓のとなり。
大事な連絡は、横の黒板に書いていただいた。
英語で一番難しいのはALTがきたとき。ネイティブな発音をききとれない。
学級会
文化祭や学年での話し合いでは、決まったことを後からきくだけ。受け身になってしまう。
体育で一番困ったのはプール。「あ」から始まるので、一番初めの僕は、どんな泳ぎをすればいいのか不安。
情報の授業では、パソコン画面を見ながらの説明が多い。
口元が見えない+同時処理(ききながら操作する)が求められるむずかしさ。
家庭科は、グループでの調理実習はマスクをつけたままなので、仲間の指示がわかりにくい。
放送での呼び出しが日常。ある日、友だちから「今呼ばれたよ」と教えてもらった。
高校一年生の時の校内「弁論大会」に出場。
国語科で、話すことにかけては上手な人ばかりの中で選ばれ、全校生徒の前でテーマ「心のバリアフリー」。
きこえないことで困ること、高校に入って嬉しかったこと、これからどのように過ごしていきたいかを伝え、
自分のことを伝える大切さ、周りにきいてもらえる喜びを感じたそうです。
この弁論大会後「困ることがなくなった!」というわけではないけれど、自分のことを少しでも知ってもらえた安心感を持てたことは大事だと思いました。
中学一年生から続けていた卓球。部員が一人だけだったけれど入部。
卓球部での時間が何より自分にとって「なんでも吐き出せる場」になる。
自分が思っていること、悩んでいること、「こうしたらいいよ」「この問題をしたら伸びるよ」といつも優しくアドバイスをくれた先輩と顧問の先生。運動不足を避けるために入った卓球部が、心のよりどころ、精神的に落ち着くことのできる場所になったそうです。
きっと世の中の人々、とくに難聴、きこえない人にとってそういう場所は必要なのだろう。
今、もし同じような状況にいる後輩がいたら、「あなたにとっての心のよりどころを一つ見つけなさい」と言います。絶対に必要ですね。
と明石さんからアドバイスをもらいました。
まとめとして「きこえない」ということを自分で認め、ありのままに相手に伝えることができるようになったのは、実は最近かも・・・と。
美容院、コンビニ、病院、役所など様々な場面で相手に説明するようになったきっかけは、
大学の時に「全国のろうの仲間、コミュニティ」に参加したこと。
きこえる社会で生きるろう者たちを目の当たりにして、自分も相手に伝えよう、説明しようと思うようになったそうです。
ろう学校にいたままじゃ気づかなかったかもしれませんね。高校に行って、大学にも行って、きこえる人と接する中で、ろうのコミュニティに参加したからこそ大事なことに気づけたのですね。
「ありのままの自分でいい」という思いを持てたお話がとても心に深く残りました。
続きまして北村陽さんです。
22歳で同志社大学文学部文化史学科に通う学生。歴史が大好きなので考古学の道に進む。主に発掘をして、地中に埋まっている遺跡を掘って過去のことについて考える学問をしつつ、発掘調査のアルバイトにも参加。
小さい時からスポーツは空手。聴覚障害者のオリンピックといわれているデフリンピックが来年の五月に開催されるので、空手で日本代表として出場する予定。これが北村さんのプチ自慢だそうです(笑)。他に好きなことは、漫画、サッカー観戦。
聞こえは、左が100㏈、右が110㏈で補聴器がないとほぼ聞こえない感じ。普段のコミュニケーションは口話中心で口の動きを読み取ったり、相手にはゆっくり話してもらったりしている。コロナが流行ってからはほとんど筆談。
続いて生い立ちについて。
東京で生まれて数ヶ月で耳が聞こえないことが分かり、すぐに品川ろう学校に通い発音の練習などをするようになる。
言語の取得が早く、4歳から健聴の幼稚園に通う。5歳の時に父の仕事の都合で大阪に転勤。
大阪では生野ろう学校の幼稚部に通う。
環境の変化が激しかったおかげで、手話も口話もある程度覚えて、難聴と健聴、両方の世界を経験できたそうです。
北村さんは難聴、ろう者の子どもをもった保護者の方々への想いを次のように話されました。
『これから中学、高校、大学に進学する子どもも多いと思います。これからのことに関して、特に聞こえのことで不安が多いかもしれません。私は学生時代、まだ学生ですが(笑)まぁ中学、高校、大学では充実した青春というより、失敗、しくじり、後悔が多かったです。これから私と同じような経験をする人もいるかもしれません。でも失敗は成功の仕方を教えてくれます。ぜひ私の経験談を聞いていただいて、皆さんのこれからの人生に還元していただけたらと思います。』
小学校は聴覚障害者へのサポートがある吹田第二小学校。たけのこ学級という難聴学級(西村、坂本在任)に在籍。
難聴の同級生が二人。親友で毎日のように一緒に遊び、今でも時々一緒に飲みに行く仲間。小学生の時から歴史が大好きで歴史に関する色々な本を読み、小学校の卒業文集で将来の夢は考古学者と書いていた。
小学生時代は健聴の友達も手話を覚えてくれ、毎日遊び、好きなものをとことん楽しみ、伸び伸びと過ごせた時代だったんですね。
関西大学第一中学校に入学。受験した理由は二つ。
一つ目は関大一中の空手道部に入りたいと思ったから。もう一つは健聴だけの環境で過ごしたいという思いから。
今まではろう学校や難聴学級がある環境でしたが、そうじゃない、ごく普通の環境でも自分は生きていけるんだという気持ちが心の奥深くにあった。中学生の頃は耳が聞こえないからといってサポートを受けることが、特別扱いされているようで拒否したい気持ちがあったそうです。
関大一中、関大一高、関西大学まで一貫校で進み、苦労の時代。
周りの人全員が健聴という環境にうまくなじめず、一人で過ごす時間が多かった。母からは、手話や筆談を積極的に使いなさいというアドバイスを受けたが、「聴覚障害者として見られたくない」、「そんなことせんでも普通の人と同じようにやっていける」という気持ちがあったので、学校では口話のみ。でも、口話では理解しきれないところも多く、分かっているふりをして有耶無耶にしてしまうことも多く、この頃から人とかかわることに苦手意識を持ってしまうようになってしまった。
きこえる人と同じようにしたい、でもできない、心の葛藤でとてもつらい時代でしたね。
あまりいい思い出がない中、部活だけはとにかく頑張って、きつい練習やプレッシャーがあったが引退までやり抜いた。
これが北村さんの中学・高校時代での数少ない誇れることだそうです。
高校で文理選択の時に文系を選択するつもりだったが、両親に大反対されて理系の道に進む。
小学校の時から歴史の勉強が好き。考古学者になりたい。それはあくまで夢。高校生の自分が大学卒業後何になるか、何になりたいのかは何もわからない状態の自分に対して、両親は「文系では営業職への就職がほとんどでコミュニケーション能力が求められるが、聴覚障がい者には大変だろう。それより理系から研究職に就くことが安定した生活になり、僕にとっても幸せなことじゃないか?」と説得された。
関西大学化学生命工学部マテリアル工学科という所に進学し、人に頼らず自分だけでやるスタイル。
大学の専門的な内容は個人の力だけでは難しく、たくさん質問する、周りを頼るというコミュニケーション能力が必要だった。それは心のどこかで分かっていたが、実行に移せず学部内に頼れる友人が出来なかった。
補聴器を付けて話していると、相手の人は何が分かっていて、何が分かっていないのか判断が難しい。これは特に軽度難聴の人に多い課題。自分は100dBなのでかなり重い方だが、手話がなくてもコミュニケーションが取れる、健聴の人と同じように振る舞えるといった変なプライドがあったので実行に移せなかったのかもしれないと北村さんは話してくれました。
心に刺さるエピソード。理系は実験の授業が多い。実験によっては服装の規定が厳しく、ある実験で服装の規定がアウトになり、授業を受けられず、教室から追い出されてそのまま帰った。
その原因は教授が実験の時の服装の規定を板書せず口頭のみで伝えたこと。それを聞き逃してしまった。最低限の板書はお願いしていたが、板書されなかった。同級生もたくさんいる中で実験場を追い出されて、すごく恥をかき、悲しいという気持ち、教授に対する怒り。
教授との軋轢、学部での孤独な状況、自分が進んだ道は本当に自分に合ってて、やりたい道なのか?ただ障害を理由にあれもできない、これもできない…消去法で選んだだけの学部で、これが本当に自分にとっていい選択だったのか?こうした色んな要因が重なって3回生の夏頃からあまり大学へ行かなくなり、人生で1番つらい時期。
打合せの時も涙ぐみ、言葉に詰まりながらぽつりぽつりと話してくれました。人との関係が上手くいかない時が一番しんどいですね。
その後、大学を休学し、3ヶ月後には同志社大学文学部の転入試験を受けて合格。
どん底の状態からどうやって立ち直り、道を開いたのか。まず、一度自分を見つめ直して、本当に進みたい道が何なのかよく考えた。自分が最も興味を持ち、学びたいと思っていた歴史学の分野に転学しようと決意。準備期間が3か月と短かったが、奇蹟的に合格。この時背中を押してくれたのが両親。一時、大学に行かないことで迷惑をかけ心配させたが、最後は自分の進みたい道に理解を示してくれ、転入試験のサポートをしてくれた。両親のサポートのお陰で転入試験に合格。
ご両親と本音でぶつかり、わかり合えて本当に良かったと思いました。
同志社大学文学部転入後、発掘調査の仕事があることを知り、好きな分野で新しい道が開けた。前と違い、同志社では全ての授業でノートテイクなどのサポートを受けている。サポートがあるとないとではやはり違う。全て自分の力でやろうとするより、格段に授業の理解度が深まる。またサポートしてくれる方々の優しさが勉強のモチベーションにも繋がる。サポートを受けていると周りの人も私の聞こえについて理解してくれ、中には積極的に筆談で話しかけてくれる人いる。新しい環境で新しい出会いがあり、自分の進みたい道(発掘調査員)を見つけて、そこに向かって日々励んでいるのが、今の自分の現在地。
今の自分があるのは私の聞こえのことを理解してくれサポートしてくれる人たち、そして両親のおかげ。
きこえにくい自分を受け止めることが、こんなに大きな変化に繋がるのですね。とても嬉しく思いました。
最後に、北村さんからの熱い思いを皆さんに直接伝えます。
「ろうや難聴の子供たちに伝えたいことは二つ。一つ目は自分の障がいを受け入れるようになって欲しい。自分は頑固で障害者だと思われたくなくて手話や筆談を使わない時期がありました。でもそれは自分を苦しめるだけでした。障がいを持って生きるという事はつらいかもしれないし、コンプレックスを感じている人もいるかもしれませんが、それを受け入れて一歩進むことが大事です。障がいを理由に夢をあきらめないで欲しいです。今は障がいを持っていても色んなことにチャレンジできる時代だと思います。やりたい道に進めても、全てが楽しいわけではなく辛いこともあります。それでも覚悟を持ってやり通すことが大事です。この二つは自分にとって今までも、そしてこれからも壁にぶつかり思い悩んだ時の大きな指針になると思います。
そして難聴の子供を持つ保護者の方々へ、子供たちはこれから多くの壁にぶつかると思います。親御さんも心配事は多いでしょうし、どう接していけばいいのか明確な答えはないと思いますが、どうか子どもの気持ちに寄り添ってあげてください。」
この最後のまとめで私たちは涙くんでしましました!!
最後は鎌田さんです。
1991年8月に大阪で生まれる。
父、母、姉、私、妹の5人家族。約1年半前に結婚し、現在夫婦二人で過ごしている。
聴力は現在、左が約90db・右が130dbで、補聴器は左耳のみ着用しています。
好きなことは寝ること。時間さえあればずっと寝ている。
幼稚部・保育園を卒業後、小学校から大学まで地域の学校で過ごす。
現在は大阪府立中央聴覚支援学校で、小学部の担任。
母親が妊娠中に先天性サイトメガロウイルス感染症に罹る。
この感染症は、赤ちゃんが母体の中にいるときに感染し、聴力や神経発達に重篤な影響を及ぼすことがあるそうだ。
産後の検査で、先天性感音性難聴だということがわかる。
幼稚部を卒業し、地域の小学校へ進学。放課後は、学童に通う。
なぜ、地域の学校を選択したのか?
「早いうちからいろんな人に出会って聞こえる世界でもまれることで、これから待ち受けているであろう困難から生き抜いてほしい。自分のことは自分で言える人になってほしい。」との母の願い。
週に一度は、近くの小学校にある「ことばの教室」に通い、ことばの訓練を受ける。今でも「さ・た行」発音が苦手。
自分一人だけ補聴器をつけていること。周りの友だちとスムーズにコミュニケーションがとれず、置いてけぼりになっていた時があったことから、自分は他の人とは違うと感じることが増えていった。
耳掛け補聴器を見て「補聴器をつけた、声がへんなやつ」と思われていたようで、いじめを受けたこともあった。
また、遠くから「ゆかりー!」と声をかけられても聞こえなくてよばれたことに気付かず、「無視された!」と思われたり、「いちじ」と「しちじ」の聞き間違いから約束の時間に集合できなかったりして、友だちと喧嘩になってしまったこともあった。
その時は、近くにいた学童保育の指導員の先生が間に入ってくれ、わたしをよぶときは「肩をとんとん」ってしたらわかるよね。と話し合いの中で友達に伝えてくれた。このことから、似たような口形のことばがあるとわからないので、大切な話(だれと・いつ・場所)はメモに書いてもらうように友達にお願いするようになった。
高学年になったころ、聞こえる友だちが親や友達と聞き返すこともなく普通に話している姿が羨ましく感じ、母に「なんで聞こえる自分を産んでくれなかったん!」と責めたこともあった。また、周りからいじめられてると伝えた時は、母にとってショックだったみたいで、先生に伝えるために泣きながら連絡帳を書いていた姿を今でも覚えている。
障がい認識と自己肯定感が持ちにくい思春期でしたね。
地域の中学校で、U先生に出会う。U先生は、手話ができ、手話サークルの顧問であり、3年間担任。
きこえないことを受け止められない自分は、周りと比べ、自分だけが聞こえないという劣等感を感じていた。
周りの様子を見ようともせず、自分第一に動いていた。U先生に「助けてもらってばかりではだめ。もっと周りの様子を見なさい。でないと、あなたがおかれている状況は変わらないよ。」と厳しく言われた。「なんでそんなこと言われなあかんねん!」と、先生の言葉を受け止めきれず、殻に閉じこもり、泣いてばかりいた。
しかし、自分から変わらないといけないことは心のどこかで感じていた。自分から挨拶をしたり、自分ができることを見つける(卒業旅行の係の仕事)など、自ら行動することで、少しずつ周りの友だちと話をする機会が増えていった。
まだまだきこえにくいことを受け止められないけれど、少しずつ変わろうとし始めたのですね。
「この高校は様々な障害がある生徒を受け入れていて、きっと大島のことも受け入れてくれると思うよ。」というU先生の助言で進学。
知的障がい生徒自立支援コースといって、知的障がいがある生徒を受け入れている。
入学してすぐに、自立支援生徒と共に学び、遊び、成長できる「仲間の会」に所属。
『今までは自分が支えてもらう側だったのが、逆に仲間を支える側になり、自分とは違う障がいのある仲間の思いを知りました。
彼らが自分自身の障がいのことで悩みながらも前向きに取り組んでいる姿を見て、障がいのことで悩んでいるのは私だけではないんだ!と知った日のことを今でも覚えています。自分の障がいのことを理解してもらうには、自ら伝えていかないと何も始まらないことを教わり、少しずつ自分のことを伝えられるようになりました。』
他の障がいのある人との出会いが、鎌田さんの人生のターニングポイントでしたね。
先生を目指そう!と強く思ったきっかけになった2つのエピソード。
1つ目は、児童放課後いきいき事業の指導員として自己紹介をする時、自分の障がいについて伝えたら、男の子が、「ぼく、先生が聞こえないことを知っているから、ぼくは先生とお話をするときはゆっくり話をするね。」と言ってくれた。それを聞いて胸が熱くなり、「〇〇くんがそう思ってくれていることがとても嬉しい」と答えた。
このアルバイトを続けることに自信を失いかけていた頃なので、自分の障がいを理解してくれている子どもがいる。もし、自分が先生になったら、〇〇君のように、障がいを理解してくれる子どもたちが増えていくのではないかと思った。
自己紹介をきっかけに、子どもとのとてもいい出会いができましたね。
2つ目は、小学校の教育実習でのエピソード。自分の発問に対し、後方の席の子の答えをなかなか聞き取ることができず、何回も聞き直した。その子は何度も分かるまで答えてくれた。授業後、もし、聞こえる先生だったら、こんなにやり取りをすることはなかっただろうし、何度も答えることもなかっただろうとその子に対して申し訳ない気持ちになっていた。反省会で自分の気持ちを先生方に打ち明けると、見に来てくださった一人の先生が、「あなただから、彼は最後まで答えてくれたんだと思う。あなたの存在は子どもたちにとって大きな経験になったと思うよ。」と話してくださった。
何度も聞き直したことは良くないと思っていたことが、逆に「わかるまで伝えることの大切さを子どもが学んでいる」と受け止めてもらえたことが、きこえにくい自分の自信につながったのですね。この2つのエピソードから、きこえにくくても受け入れ、理解してくれる子ども達や先生方がいるとわかり、がんばろうと思えてよかったですね。
これまで口話でコミュニケーションをとってきた自分は、手話を使う必要性は感じていなかった。勤め始めたころは、手話で子どもたちとやり取りすることはなかなか大変だった。子どもたちがいきいきとした表情で会話をしている様子を見て、それは手話や指文字が生活の中にあり、自分の思いが手話や指文字を通して相手に伝わる・共感してもらえる環境があるからだと気づいた。
働き始めて7年目の今、自分にとって手話はコミュニケーションをとる上で必要。指文字・手話だけ!口話だけ!ではなく多様なコミュニケーション手段を知り、身に付けることで、多くの人と関われるきっかけになると思っている。
鎌田さんは『人それぞれ一人ひとりに合ったコミュニケーション手段があり、それを認め合う社会に変わっていけば、障がいのあるなしに関わらず、一人ひとりが過ごしやすくなるのではないかなと思っている』とまとめられました。
皆さまが講演終了後、次々に届けてくださったアンケートの感想のまとめをご紹介します。
《明石さんの講演感想》
・明石先生が具体的に学校現場で困られたこと、良かったことなど教えてくださいましたので、何をすべきかヒントをいただきました。 |
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・国語が好きというお気持ちから進学先を選ばれたことがすてきだなと思いました。また、新しい環境でチャレンジされながら、教師というお仕事を選ばれ、今もがんばっていらっしゃることが伝わってきました。
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・やりたいことを見つけて、進んでこられたこと。困りごとを分かりやすく説明された。大学時代のお話も聞きたくなりました。
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・高校を普通校に選択した時のチャレンジングな気持ちがとてもよく伝わってきました。英語の時間など、具体的にわからないこと、対応方法等を聞かせていただき勉強になりました。教師という目標を実現されたのは本当に素晴らしいと思います。現校の子どもたちにとっても憧れの存在ではないでしょうか。
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・部活や何かのコミュニティで「心のよりどころ」を作っておくことの大切さを感じる事ができました。英語のサポート方法のお話の中で、カタカナで発音を書いていく事は、英語の聞き取りでつまずきつつある娘に実践してみようと思いました。
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・中等部まで聴覚支援学校、からの一般の高校の進学が可能であることを知りました。貴重なお話をありがとうございました。 |
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・3月に難聴がわかって、4月から早期療育を受けられるようになさった、当時のお母さまのことを思うと、もう涙涙でした。「ま、いっか」と思えることも才能だと思います。貴重なお話、ありがとうございました。
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・聴こえないことを説明しても どれくらいわかって、どこらへんが分からないのか、周りの人は理解しづらいということ、そうだなと思いました。まぁいいか という思考や聴こえない人たちのコミュニティで自分の思いを話すという気持ちの出し方はとてもいいと思いました。生徒達のいい相談相手になれますね。
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・捲土重来という言葉を娘に伝えたいと思います。 |
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