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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


先日の仲間同志の会話である。

 

ある方が『この頃、身体の調子が良くない。』と訴えたところ、ある人は『ビタミンEが良い』と答え、さらに、その隣りの人は『いやいや、ビタミンFがよく効くぞ。』と。

 

すると、また別の方が『健康食品なんて気休めだ。歩くのが健康に一番よろしい。』と言ったので、早速、翌日の早朝から歩き始めたとのこと。

 

そうしたところ、急に歩き出したために膝や腰が痛くなって、結局のところサメの軟骨やグルコサミンを飲んでいるとのことである。

 

誰かに言われると、すぐに、あっちウロウロ、こっちウロウロだ。

 

人間って、弱いものだなぁ。

 

身体の調子が良くなければ、ウロチョロしないで『最初から医者にかかれ!!』

 

 

サンライズ

 


本日、午前八時頃にM5弱の地震があった。


その瞬間、『これは、ただ事ではない。』と体感し、直ちにひとり裸足で境内に出た。

 

数秒遅れて坊守が靴を履いて出てきた。

 

するといきなり、『ご院さん、私達を放たらかして裸足ですよ!』と。

 

昨日、伊庭の荘厳寺のご布教で、『他人様への思いやりの心』についてのご法話をしていたところだ。

 

何と言うことか!!。

 

思わず出てきた言葉は、『だって、僕が助からんと、君たちを助けられないだろう?』だった。

 

都合のいい苦し紛れの返答でしかない。

 

 

歎異抄の結語に、『煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、よろずのこと皆もってそらごとたわごと真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。』とある。

 

どうしてお念仏が浮かばなかったのだろう。

 

やはり、どこまで言っても”煩悩具足の凡夫”でしかないな。

 

今は、今回の地震でお亡くなりになった方々及び被災された方々に哀悼の誠念じ申しあげる次第である。

 

南無阿弥陀仏、なまんだぶつ。

 


サンライズ

 


長寿を全うされた方の弔辞に『大往生』という言葉を耳にすることがあるが、さて、どうだろう?

 

年齢に関係なく、家族にしてみれば愛別離苦は計り知れないものがある。

 

勿論、老化と同じく人の死は自然極まりない現象である。

 

忌み嫌う必要もないし、いずれ訪れるごく当たり前の所作である。

 

従って、お気の毒なことでもなく悪いことでもない。

 

人生、楽しいことは長続きしない。

 

むしろ、辛いことや悲しいことの方が多かったかも知れないが、『この世に”いのち”をいただいて本当によかった。』と心から喜べる方が使える言葉だろうな。

 

『大往生』なんて表現は、解ったような振りをして他人様が使う言葉ではないな。

 

 

サンライズ

 


私は、こうであらねばならない。

 

自分は、このようでないと困る。

 

この範疇には他人様に対する当たり前も存在する。

 

こうした出しゃばりが過ぎると、その反対に、『いやいや、私はこう思う。』という人も現れる。

 

己の都合というのは人様々なのである。

 

つまり、一方を立てれば一方が立たない。

 

こうした角(つの)はそう簡単に消え去ることはない。

 

 

例えば、三角形を思い浮かべてみよう。

 

三角形には三つの角(かど)が存在する。

 

角(つの)を己の都合と考える時、正しい場合もあれば過ちもある。

 

 

では、5角形を思い浮かべてみると文字通り角(かど)は5個だ。

 

こんな、角(つの)を数え切れないほど持ち合わせているのが人間なのである。

 

さらに8角形を思い浮かべてみるに、角が8個あってもその角に気付けないのが人間なのである。

 

こうした自らの角(つの)に出遇わせていただくのが仏法である。

 

人間は、ちょっと仏法を聞いたところで、すぐには変わらない。

 

大切なのは、自分の角を知ることであり、本当の自分の姿に気付かせていただくのが仏法聴聞なのである。

 

所詮、人間は、感動的な良い話を聞いたところで、そう簡単には変われない。

 

世間では、角(かど)が丸くなることを『角が取れる。』というが、なかなか取れない。

 

 

では、100角形を想像してみよう。

 

己の都合という100個の角(つの)は永遠に消えないかもしれないが、100の角(かど)を知ることによって限りなく円に近づくのである。

 

問題は、己の100の角(つの)に気付かせていただくかどうかである。

 

仏法を聞くということはこういうことだといただいている。

 

 

サンライズ

 

 

ある方が、生きたままで葬儀を迎えようとしている、

 

独特の世界ならではのことだ。

 

嫉(ねた)み、嫉(そね)み、怒りが創りあげた捏造の世界だろう。

 

所詮、攻めの世界においては腐敗は絶えない。

 

現実に起きている沙汰が事実とすれば、おぞましい限りである。

 

真実は一つしかないが、誰も真実を見極めようとはしない。

 

みんな、『己の都合』という膿中に溺れて必死なのだ。

 

多勢に無勢の世界ではマイノリティーは闇に葬られる。

 

恐ろしい世界が現実にあるというのは残念極まりない。

 

今は、『あなた、一人じゃない!』としか言葉できない。

 

苦悩する者を救おうとする力は、決して絶えることなく無限にはたらき続ける。

 

救いは一つしかない。

 

泥の中でも華は咲くが、膿の中には華は咲かない。

 

将来、真実は時空を超えて証明されるに違いない。

 

 

サンライズ

 


先日、ある方の葬儀に接した。


私達は気ままに生きている。

 

我が身の”いのち”すらも気ままな範疇にして生きている。

 

実は、『己だけは・・・。』という奢りの中に溺れている。

 

『それが当たり前!』という過ちに、いつ気気付けるのかな。

 

『生きていくためには止むを得ない!』という雲霧の中で解決しようとしてはいまいか?

 

ああ、何とも情けない。

 

『何時かは、何処かで目覚めたい!』と思うのだが。

 

自らが覚めようとする限り、果てしない生死が襲ってくる。

 

正直、私もその範疇でしかなかい。

 

現に、そんな我が身に気づけない人々を責めているのだから。


本当の我が身に一歩でも近づけた時、己の計らいなんぞ、仏さまの比ではない。


『ただ、念仏のみぞ真にておわします。』という世界がそこにはある。

 

ああ、何とも情けない。

 

 

サンライズ

 


ふと、言葉が思い浮かんだ。

 

どこかによく似た標語があったような気もするが、すぐに、ペンを取って記録した。

 

 

毎日、毎日が

 

初めて到来する

 

尊き一日

 


サンライズ

 


悪徳商法とは、もともと価値のない物を、あたかも価値があるかのごとく騙し、本質を知らない人々に高い金額で売りつける商法のことである。

 

もう、いい加減にしてほしい。

 

元を辿れば明白なのだが、それを誰も阻止できない。

 

咎めようものなら醜い拷問が待っている。

 

アメリカ大陸開拓時代の西部劇みたいなものだ。

 

悲しいかな、人間社会は損得勘定でしかないのだから、誰かが得して、誰かが損を被る。

 

でも、仏様は常に、真実か真実でないかの物差でしかないのである。

 

 

サンライズ

 


ご先祖さまは、諸仏のお一人としていつもかかわっておってくださる。、

 

人との付き合いを大切にしているか?

 

耳の痛い話に背を向けてはいないか?

 

ご指摘、励まし、お礼・・・・など。

 

届けられる言葉にはすべてに意味がある。


それは、ご先祖さまが人の口を使って、いま、私に届けておってくださっているのである。

 

 

サンライズ

 


この2月中旬、ご本山での御茶所布教の際、時間潰しに本山周辺を散策していた。

 

すると、歴代ご門主が起筆された扇子が無造作に縁側に置いてあるではないか。

 

多分、過去の記念法要等で余った記念品だろうが、うっかりゴミに出せるものではない。

一端は、数本を懐に入れたところで、ある苦い思い出が脳裏をよぎった。

 

 

今から40年ほど前のことだ。

 

済生会の総裁が高松宮殿下(現在は秋篠宮両殿下)の頃、滋賀県に御下向いただいたことがあって、そのお礼として愚僧は院長随行者として信楽焼を持参しつつ赤坂の高松宮邸を訪ねたのである。

 

殿下と院長は迎賓室でご対面中の頃、愚僧は応接室で待機していた。

 

天上にはスエーデンの海中から採掘されたアメジストで造作されたというシャンデリアが吊され、ライオンの足を象った豪華な机に正対して待っていた。

 

すると女官らしき方が入室され、『妃殿下(最後の将軍徳川慶喜公のお孫さん)自らがお作りになったクッキーを召しあがれ。』とのたまうが、どうやって食していいのか解らず、思わずハンカチを広げて厳かにいただいた次第だ。

 

女官が去った後、机の中央にはメノウらしき宝石で作られた箱と灰皿が置いてあり、中にはタバコが敷き詰められていた。

 

灰皿が置いてあるので吸ってもよかろうと思い、一本吸ったところ何とも言えない芳ばしい香りが漂い、よく見るとタバコに菊のご紋が入っている。

 

これこそ”恩賜のタバコだ!”

 

 

愚僧は通常では手に入らない土産が欲しかったのである。

 

思わず、10本程度、懐にくすめたところ、すかさず侍従が入室してきて『恩賜のタバコはお帰りの際に差し上げますから。』と言われた。

 

すべての愚僧の所作がモニターに映っていたのである。

 

悪いことはできないものだ。

 

 

こうした過去の苦い思い出に目が覚めて、扇子は元に戻すことにした。

 

今時、どこから監視されているかも知れず、モニターにでも映っていたら大変。

 

おそるおそる、宗務所の偉いさんに申し出たところ、『処分するのに困っていました。どうぞ、ご自由に!』と言っていただいた。


まあ、悪いことはできないもので、過去の思い出におさらいをさせてもらった次第である。

 

結果、一箱いただくことにした。

 

 

サンライズ