大正中期のお話である。
あるご院さんがご門徒の報恩講にお参りした時のこと。
国鉄の機関士を勤める若い息子が参っていたので、「おお 、あんたも報恩講に参ってくれたのか、感心、感心。」と言ったところ、ムッとして「今日は厄日じゃ!」と返したらしい。
「何で?」と質すと、「今日は非番やから映画でも見に行こうと思っとった。でも、親から拝むようにして、『おまえも報恩講に参ってくれ!』と頼まれたんで、仕方なしに参っとる。だから、今日は厄日や!」と返してきた 。
するとご院さんは、「厄日でも何でもいいが、せっかくお参いりしたんやから、仏法について何か聞きたいことはないか?」と質した。
すると、「親がよく、『仏法聞け、仏法聞け!』とやかましく云うが、難しく云われてもわからん。たった一言でいいから仏法とは何じゃ、教えてくれ。」と喰らいついてきた。
八万四千の法門を一言で語れ、と云うわけだから極めて難しい質問である。
すかさず、ご院さんは、「仏法はなあ、鉄砲の反対じゃ。」と応えたところ、息子は余計に分らんようになった。
「何じゃ、鉄砲の反対じゃと?、鉄砲の反対って何じゃい!」
「鉄砲は生きておるものを殺すが、仏法は死んだものを生かすんじゃ。」と仰った。
すると、何を勘違いしたのか、「じゃ、棺桶に入ったがを生かすのが仏法か?」ときた。
「バカタレ、あれは死骸というカスじゃ。あんなもんは死んだと云うんじゃない。」
「なら、どういうものを死んだと云うんじゃ?」
「丁度、おまえさんのような者を死んだと云うんじゃ。」と、ご院さんは返した。
さすがに、息子は腹を立て、「バカにすんなっ、わしは生きとるわい!」と、手足を動かしてみせた。
「それは動いとるだけじゃ。おまえさんの仕事で言えば機関車に石炭を放り込んでやると、レ-ルの上をカタコトカタコト走り出すが、あれは生きとるんじゃない。おまえさんも、三度のおまんまを口の中へ放り込んでやると、習慣という定められたレ-ルの上をカタコトカタコト走り出す。それは動いとるわけで生きとるんじゃない。」と説法された。
この一言が青年の目を覚ましたという。
以後、この青年はご院さんに師事し、蒸気機関車の如く燃えるような勢いで仏法聴聞し、後に素晴らしい念仏者に育ったという。
呼び掛けられれば目覚める存在が人であり、目覚める身が人身なのである。
人は誰でも目覚める能力を持っている。
しかし、目覚める能力がはたらくためには 『呼び掛け』 が必要なのである。
呼び掛けに遇うために 『聴聞』 がある。
このことを私達、僧侶は忘れてはならない。
南無 サンライズ