愚僧の独り言だが、看取りに近い父母を目前にして様々なことを考えてしまう。
一体、『この方々は何ぞや?』ということだ。
毎日、毎日、我が子のこのことをひたすら慈しむ。
目に見えないところの願い、営み、育み及びはたらきを感ぜずにはおれない。
人間は、自分の力で生きていると勘違いしている。
では、自分の力ってどんなものだろう。
例えば、小石と岩石を思い浮かべてみよう。
いくら、小石でも池に投げれば沈み落ち、自らの力では二度と地上に浮き上がることはできない。
しかし、岩石であっても、親さま阿弥陀さまという船に乗せればどうだろう。
世の荒波を渡るには最良の方法である。
だが、それに気付かず自分の力で泳ぎ渡ろうとする。
仕事、財産、家族という大切な板切れにしがみついて。
人生は次から次へと様々な荒波が襲いかかってくる。
一難去ってまた一難。
確かなものと思っていた板切れは、すべて私からさよならするものばかり。
また、止めどなく荒波が覆い被さってくる。
『 生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我等をば 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける 』 という和讃がある。
釈尊の生まれ変わりと言われている龍樹菩薩を讃えた親鸞聖人の歌である。
『 のみぞ 』であるから、他に道筋は無いということである。
では、『 渡しける 』というのは『 何処へ 』ということだが、此の岸から彼の岸へということだ。
彼の岸とは『彼岸』のこと、つまり、阿弥陀さまのお浄土の国である。
毎日、父母の姿を見つめながら、いずれそうなる我が身を教わりつつ、もうすぐ春のお彼岸を迎えようとしている。
南無 サンライズ