灯台守の唄

灯台守の唄

幅広く何でも書いている雑記ブログです。
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源義経をわかりやすく紹介したいと思います。

「判官びいき」という言葉があります。

「判官」とは源義経のこと。

31歳と言う若さで悲劇的な死を遂げた源義経に同情する人は今も昔も多く、数多くの物語が生み出されました。

 

源義経は実は自害しておらず、モンゴルに逃げて初代皇帝チンギス・ハンになったという、荒唐無稽な伝説も明治期に広まったほどです。

これも源義経に生き延びてほしかったとの人々の願いの表れでしょう。

 

源義経はどういう人で、どういう生涯を辿ったのでしょうか?

わかりやすく紹介していきたいと思います。

 

 

●源義経は源頼朝の弟として生まれた

まず略歴についてわかりやすく紹介します。

 

源義経は源義朝の9男として生まれ、幼い頃は牛若丸と呼ばれていました。

3男として生まれた源頼朝にとっては腹違いの弟にあたります。

母は美女として名高い常盤御前です。

 

平氏との戦いで義朝が死ぬと、出家を条件に命を救われ、鞍馬寺に預けられました。

源義経はここで武芸を磨き、出家を拒否。

鞍馬を出ると、生涯の家来となる弁慶と出会い、奥州藤原氏を頼って東北に向かいました。

 

 

●一の谷の戦いで勝利した源義経

頼朝が挙兵すると源義経は兄の元に馳せ参じ、以後天才的ないくさぶりを発揮することになります。

その内の一つが一の谷の戦いです。

 

平氏は前は海、後ろは断崖絶壁という一の谷で厳重な陣営を作っていました。

戦いが始まっても源氏は平氏を攻め落とすことができません。

源義経は70名程の騎馬を連れて絶壁側に回り、騎馬で駆け下りました。

背後からの思わぬ奇襲に驚いた平氏は混乱し、源氏は大勝利を治めます。

 

この奇襲戦法は鵯越という絶壁の名前を取って「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)と呼ばれました。

 

鵯越とはわかりやすく言うと、ひよどりしか越えられないような、という意味です。

そんな崖を騎馬で降りたなんて平氏でなくともびっくりしますよね!

 

 

●壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源義経

壇ノ浦の戦いは平氏が得意とする海上戦でした。

初めは平氏が優勢でした。

しかし潮目が変わり、源氏が優勢になっていきます。

 

源義経は当時タブーであった船の漕ぎ手を矢で射るように命じたとも言いますが、真偽は判りません。

平氏が劣勢になる中、勇猛な平教経はせめて源義経を打ち取ろうとしますが、源義経は船から船へと飛び移って行ったと言います。

「八艘飛び」として有名です。

 

平氏の武将達が次々と入水して自害していく中、安徳天皇も祖母に抱かれて入水しました。この時三種の神器である草薙剣も失われたのです。

 

 

●兄の頼朝に滅ぼされた源義経

源平合戦の最大の功労者となった源義経。

しかし兄の頼朝との対立が本格化します。

以前から独断専行が目立っていたこと、また朝廷から官位を受けたことから頼朝から疎まれてしまったのです。

 

逃亡の身となった源義経は奥州藤原氏の藤原秀衡の元に逃げました。

しかし当主の藤原秀衡が亡くなると、息子の泰衡は源頼朝に屈服します。

源義経は堂にこもって自害し、忠実な家来である弁慶は矢を受けながら最期まで主を守りました。

 

 

●まとめ

源義経についてわかりやすく紹介してみました。

 

源義経は奇襲戦法が得意な、天才的ないくさ上手だったことがお判りいただけたかと思います。

一方で源頼朝と対立し、とうとう自害に追い込まれるという悲劇の持ち主でもありました。

 

兄弟の対立についてはどちらにも言い分があったことでしょう。

源義経がもっと空気を読み、独断専行を慎んでいたら。

源頼朝ももっと功労者の弟を大事にし、突き放すのではなく、うまく懐柔していたら。

と現代人としては思います。

 

彗星のように現れ、あっという間に消え去った。

源義経はそんな特異な存在でした。

 

源頼朝が征夷大将軍になったのはいつでしょうか?

それは1192年と言われています。

この年に鎌倉幕府が開かれたというのが今までの説でした。

 

「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚えた方も多いですよね?

「いい国」つまり1192年です。

年号を覚えるのにこれほど判りやすいフレーズもなかったのではないでしょうか?

 

ところが今では鎌倉幕府が開かれたのは1192年ではなく、1185年とする説が有力になっています。

判りやすいフレーズだったのに残念!と思います。

 

今回は源頼朝が征夷大将軍になったのはいつか、将軍の意味も含めて紹介したいと思います。

 

 

●源頼朝が征夷大将軍になった年は?

源頼朝が征夷大将軍になったのはいつか。

1192年に源頼朝は征夷大将軍になりました。

 

しかしイコール鎌倉幕府が開かれた年ではありません。

最近の研究で鎌倉幕府が開かれた年には諸説あるのです。

 

(1)侍所を置いた1180年

(2)朝廷から支配を任された1183年

(3)守護や地頭を置いた1185年

(4)右近衛大将に任命された1190年

 

とさまざまですが、その中でも有力なのが1185年です。

最近では「いい箱作ろう鎌倉幕府」と覚えるそうです。

「いい箱」つまり1185年の語呂合わせです。

 

 

 

●源頼朝がなった征夷大将軍とは何か?

 

征夷大将軍とは元々、東北の蝦夷を制圧し、朝廷に従わせる意味の役職でした。

しかし東北を従わせる意味はだんだん薄れていき、武門の棟梁にして武家政治の最高責任者の意味を指す役職になっていきます。

 

源頼朝も東北の奥州藤原氏を討つためにこの役職を望んだか?と言えばそうではありません。

1192年に征夷大将軍になった時には奥州藤原氏はすでに滅亡していました。

源頼朝は武門の棟梁としての征夷大将軍の位に就いたのです。

 

 

●征夷大将軍のほかにいくつか候補があった?

文献によると、源頼朝が就任するに当たり、いくつかの名称候補があったそうです。

 

(1)  征夷大将軍

(2)  征東大将軍

(3)  惣官

(4)  上将軍

 

この中で坂上田村麻呂が任じられたことで有名な征夷大将軍が選ばれたそうです。

坂上田村麻呂は功績を上げた人として有名で、武芸の神様としても知られます。

先人の功績にあやかって、おめでたい名称が選ばれたんですね!

 

 

●源頼朝はポストに執着しなかった?

折角就いた征夷大将軍でしたが、文献によると1194年に辞任しています。

つまり2年間しか将軍職を務めなかったことになります。

 

その前にも1190年に権大納言と右近衛大将に任じられていますが、翌月には辞任しています。

征夷大将軍になるための布石としか捉えていなかったのでしょうか。

それとも鎌倉に帰るため辞任した?

 

いろいろな理由が考えられますが、個人的には源頼朝はドライな性格で、ポストに執着しないタイプだったのではないかと思います。

征夷大将軍を辞したのも、武家政権が確立されたのを見届け、自身がそのポストにいる必要はないと考えたのかもしれません。

 

 

●徳川家康も源頼朝に憧れた?

征夷大将軍を武門の棟梁として確立した源頼朝。

以後武家による政治は大政奉還が行われるまで700年も続きました。

源頼朝が築いた武家政治は明治まで続いたことになります!

 

徳川家康も源頼朝を崇拝していたそうです。

家康も幼い頃より人質生活を送り、長いこと忍耐の生活を送っていました。

20年の流人生活を送った源頼朝に共感していたのかもしれませんね。

したたかで慎重な性格であることも二人は似ていると思います。

 

 

●まとめ

源頼朝が征夷大将軍になったのはいつかということから、鎌倉幕府が開かれた時期、征夷大将軍の意味などまとめてみました。

 

源頼朝が征夷大将軍になった年は鎌倉幕府が開かれた年とイコールではないことがお判りいただけたかと思います。

 

また征夷大将軍を武門の棟梁の名称としたことは大きいです。

江戸幕府の最後の将軍である徳川慶喜までその名称は続きます。

 

源頼朝が征夷大将軍になったのはいつかと考えることは、700年続いた武家政治のルーツはいつか考えることでもあります。

1192年という年はしっかり覚えておきたいですね!

源頼朝がしたことはたくさんあります。

でも源頼朝ってあまりに偉大で、何をしたのか漠然としていてよく判らない、という方も多いかもしれません。

 

今回はそんな方々に源頼朝がどういうことをしたか、どういう過程を辿って源氏を一つにまとめ上げたかご紹介したいと思います。

 

決してスムーズなばかりではなかった彼の人生を辿ると、源頼朝も大変だったんだなと共感するかもしれません。

是非最後まで読み進めて、源頼朝がしたことを知ってみてくださいね。

 

 

●源頼朝はローティーンで参戦した

まず源頼朝がしたこととして十代まで遡ってみましょう。

 

源氏と平氏が争った平治の乱で源頼朝は13歳で参戦しています。

初陣する年齢としてはそれほど早くなく、当時では普通でした。

 

ところが平治の乱は平清盛が勝利し、父の義朝は殺され、腹違いの兄達も殺されてしまいます。

父や兄が殺され次は自分も、と源頼朝は絶望したことでしょう。

 

しかしまだ幼少であったことから清盛の継母に庇われ、命は許されました。

そして長い流人生活が始まっていきます。

 

 

●源頼朝は北条政子と結婚し、北条氏を味方に付けた

流人生活は20年続きました。

その中でも源頼朝は武芸や勉学には励んでいたそうです。

 

いつか平氏を倒してやろうと復讐心を募らせていたとする説や、平氏に楯突つくことは考えていなかったとする説などがあります。

 

その間伊豆の豪族である北条氏の娘、政子と結婚しました。

北条氏は元々平氏の血筋で、父時宗は当初結婚に反対していましたが、源頼朝の挙兵に従うなど、徐々に味方となっていきます。

 

 

●源頼朝は石橋山の戦いで大敗した

後白河院と平氏の関係が悪化し、後白河院の息子の以仁王が「兵士を倒せ」と全国の武士に命令を発するようになって、反平氏の武士達の期待が源頼朝に集まるようになっていきました。

 

源頼朝は挙兵を決意し、流人生活に別れを告げます。

しかし最初の戦いである石橋山の戦いは大敗に終わりました。

源頼朝は出直しを余儀なくされ、武士達に土地の支配権を与えるから味方するようにと説得して味方を増やしました。

 

「そりゃ真っ向から勝負できる相手じゃないよな。まずは足元を固めないと!」と反省したのでしょうか?

関東を地盤として勢力を広め、再び平氏に立ち向かっていきます。

 

 

●源頼朝は平氏を滅ぼした

平清盛が死んだこともあり、平氏の勢力は劣勢になっていきます。

そんな中で源頼朝は平氏を西国に追いやることに成功しました。

 

また後白河院と関係が悪化していた木曽義仲を源義経に討伐させます。

従兄弟である義仲を、弟である義経に討伐させるという源氏内の勢力争いです。

この辺一致団結していた平氏と比べ、源氏は血塗られた一族というイメージなんですよね。

なにせ殺し合った末に源頼朝の直系は途絶えてしまうのですから。

 

その話は後世のこととして、源頼朝は西国に追いやった平氏をついに壇ノ浦で滅ぼしました。

父や兄を殺し、自分に流人生活を強いた平氏を倒したのです。

リベンジストーリーは大団円となりました!

 

 

●源頼朝は義経を自害させた

源頼朝と言えば義経との対立が有名です。

義経はいくさの天才で、彼がいなければ平氏を滅ぼすことはできませんでした。

でも義経は独断専行が目立ち、朝廷から官位をもらうなど勝手な行動もありました。

 

源氏が朝廷の下風に立つようでは武家政権は作れないと危惧した源頼朝は義経を討伐することを決めます。

義経は自害に追い込まれ、彼を匿った奥州藤原氏も滅ぼされました。

 

判官びいきという言葉があります。

弱い立場にある者に同情を寄せる日本人の特性を現した言葉ですが、判官とは義経のことです。

兄の為に戦ったのに兄に自害させられた義経に人々は同情しました。

 

でも源頼朝にも言い分はあったでしょう。

源頼朝が義経を滅ぼしたことは日本初の武家政権を開くにあたってどうしても必要だったと。

俺を悪者にしたきゃ悪者にすればいいよ!な源頼朝の声が聞こえてきそうです。

 

 

●まとめ

いかがだったでしょうか。

 

偉大なのは判るけど具体的に何をしたの?と思っていた方々には、源頼朝がしたことについてお判りいただけたかと思います。

 

源頼朝が20年の流人生活に甘んじた末に平氏を滅ぼした過程は決してスムーズではありませんでした。

負けいくさもあれば、弟を自害させるという苦汁を飲む経験もありました。

 

大変だったんだね、弟を殺したのは辛いね、でも武家政権をよく作ったね、といろいろな感想を持っていただければ幸いです。

源頼朝の豆知識をいくつか紹介したいと思います。

源頼朝と言えば鎌倉幕府を開いた人として有名ですよね。

 

実際の源頼朝はどんな人だったのでしょう?

若い頃から流人生活を送るなど苦労を重ね、また弟の源義経を滅ぼしたことから、どちらかと言えば世間的にはクールでしたたかな印象があるかもしれません。

 

今回はそんな源頼朝の人間らしさを感じる豆知識を紹介したいと思います。

それらを知ると今までの源頼朝のイメージが変わって来るかもしれませんよ。

 

 

●源頼朝はイケメンだった?

まずは容貌についての豆知識です。

当時の文献に源頼朝は顔が大きめで、イケメンだったと書かれています。

「容貌優美」とも書かれていることから、武家でありながら貴族的な、柔和な容貌だったのではないでしょうか。

 

これは源頼朝の母の血筋が大いに影響してのことだと思います。

母の由良御前は血筋が良く、熱田神宮の大宮司藤原季範の娘でした。

弟の源義経の母である常盤御前が雑仕女の身分だったのに比べると、雲泥の差だったのです。

 

源頼朝はこの母の血筋をかなり誇りにしたでしょう。

そして身長は165センチと、これまた当時の身長としては高かったと言われています。

高身長のイケメンでアイドルのように目立つ風貌だったと思われます。

 

 

●ライバルの母に救われた?

 

平治の乱という源氏と平家の戦いで、源頼朝は父の義朝と兄二人を失っています。

当然嫡男である源頼朝も殺される可能性が高かったわけですが、思わぬ所から救いの手が差し伸べられました。

 

池禅尼という平清盛の継母に当たる人です。

この人が清盛に助命嘆願をし、源頼朝は命を救われたと言います。

宿敵の母親に救ってもらったなんて不思議な運命ですよね!

 

池禅尼は20代で亡くなった実子に頼朝が似ていたことから嘆願したとか、嘆願の理由には諸説あるそうです。

いずれにしろ一人の女性によって源頼朝の命は救われ、歴史が変わりました。

「歴史の裏に女あり」とはよく言ったものです。

 

 

●源頼朝は恋愛結婚だった?

当時としては珍しい恋愛結婚で、源頼朝と北条政子は結婚しました。

平時であれば双方とも親の決めた相手と結婚していたでしょう。

 

しかし源頼朝は流人の身の上でした。

そしてその土地の豪族の娘である政子と恋愛し結婚したのです。

政子の父時宗は当初反対で、政子を他の豪族に嫁がせようとしたことも二人の恋愛を燃え上がらせたのかもしれません。

 

頼朝は貴族然としていて、本来なら大人しい嫋やかな女性が好みだったのではないでしょうか。

一方の政子は情熱家なので、本来なら頼朝のような貴族は好まない筈。

タイプ云々よりも、とにかく好きになったから結婚した!というシンプルな結婚の形だった気がします。

この点、現代の恋愛と何ら変わりないですよね。

 

 

●流鏑馬を定着させたのは源頼朝?

馬に乗り弓を使う、現代でもおなじみの流鏑馬。

この流鏑馬を武士に定着させたのは源頼朝だと言います。

 

彼はいくさでは指揮を取り、実戦は部下に任せるタイプのようでしたが、実は弓の腕前は一流だったと言います。

馬に乗って弓矢を使い、実際に敵を倒すこともあったそうです。

 

源頼朝は歌人西行に流鏑馬について聞いたり、御家人を集めて話し合ったり、流鏑馬の歴史的な背景も考えました。

結果、武家社会の精神的支柱として流鏑馬を根付かせることに成功しました。

 

 

●源頼朝も歯痛に悩んだ?

「吾妻鏡」という本に、源頼朝が歯痛に悩んでいたことが判る記述があります。

歯痛は現代だけのものではなかったようです。

昔の人も悩んでいたんですね!

 

本によると、京都から薬を取り寄せたとか、痛みが再発したとか、京都に治療法を聞くために家来を派遣したとか、歯痛快癒の祈願をしたとか、痛みが治ったので舟遊びに出かけたとか。

 

その詳しい記述から源頼朝がかなり歯痛に悩んでいたことが判ります。

歯の痛みが辛いのは昔も今も変わらなかったよう。

快癒祈願までしているなんてちょっと笑ってしまうエピソードです。

 

 

●まとめ

源頼朝の豆知識をいくつか挙げてみました。

 

まとめると、源頼朝はイケメンで長身、血筋が良く、流鏑馬もできる、女子達にモテる要素満載の男性だったようです。

しかも殺される筈が助かったりと、運命も味方する人だったとかカッコよすぎますよね。

一方で北条政子と恋愛結婚したり、歯痛に悩まされたり、と現代人にも通じる側面もありました。

 

これらの豆知識から、ちょっとでも親近感がわいたり、クールな印象のみならず、アイドルみたいなカリスマ性もあったのね、みたいにとらえてもらえると嬉しいです。

今の皇室を考える時、私はよく平安時代の後一条天皇と後朱雀天皇の時代を思い浮かべます。

 

後一条と後朱雀は藤原道長の娘・彰子を母親とする同母の兄弟です。

兄の後一条が即位した後、弟の後朱雀が跡を継ぎました。

その後、後一条の息子が跡を継ぎ、その後を後朱雀の息子が跡を継ぎ、という風に交互に皇統をつないでいく筈だったのが、後一条には皇子は生まれませんでした。皇女二人しかいなかったので、後一条の血統は断絶し、後朱雀の血統に皇統は移っていったのです。

 

後一条→今上

後朱雀→秋篠宮

後一条の娘→愛子さん

 

今の皇室の状況にあてはめるとこうなります。

当時は皇女は世継ぎと見なされなかったので、すんなりと後朱雀の血統に移行しました。

同じ母を持つ後朱雀は傍系ではなく、普通に直系と見なされたのです。

 

「男女差別だ」とか「秋篠宮家は直系ではない」とか言う人達はこの事例をどう見るんでしょうか。

それは平安時代の話で現代は違うから、と言われそうですが、皇室は昔からの流れを継承してこそ皇室とも思います。

 

でも皇室典範の改正で全然知らない男性が皇室に入ってくることには抵抗があります。

その人を殿下と呼び、お妃が来れば、そのお妃を妃殿下と呼べるかと言われれば、無性に抵抗を感じるのが正直な所です。

どの男系男子を選ぶか、どの宮家が養子を取るか、とか手続きの煩雑さを思うと、いろいろ面倒くさくなって、「もうシンプルに今上の子である愛子さんが天皇でいい」と思う自分もいます。

 

あれこれ考えると考えがまとまりません。

 

平安時代の話に戻ると私は三条天皇の娘と後一条天皇の娘についてよく考えます。

三条の娘の禎子内親王は、母親が道長の娘・妍子です。

禎子内親王は後朱雀に嫁ぎ、皇子を生みました。

しかし皇子の母であるがゆえに藤原頼道に冷遇されました。

禎子内親王は藤原氏の血を引いていましたが、後朱雀に後冷泉以外の皇子が生まれず、いよいよ禎子内親王の皇子が帝位を継ぐ可能性が高くなると、藤原氏の母を持たない天皇が出現してしまう危機感に、頼道方から禎子内親王は非藤原氏の妃という烙印を押されてしまったと思われます。

 

対して後一条の娘達はどうでしょうか。

二人の内親王は、母親が道長の娘・威子です。

姉内親王は後冷泉、妹内親王は後三条に嫁ぎました。

しかしどちらにも皇子は生まれず、皇子を生まなかったことで、政争には巻き込まれず、穏やかな生涯を送ることができました。

また二人の内親王は祖母であり叔母でもある彰子に大事にされたと言います。

それはそうだろうと思います。

何しろ彰子にとっては大事な長男・後一条の娘達です。

後一条は十歳年上の威子しか妃を持てませんでした。

他に妃を持っていれば皇子が生まれたでしょうが道長隆盛の世の中でそれは許されなかったのです。

結果、皇子は持てず後一条の血統は断絶してしまいました。

母として息子に罪悪感を抱いていた可能性がありますし、また妹・威子にも皇子を生まなければならないプレッシャーを与えられ可哀想な人生だったと思っていたでしょう。

その罪滅ぼしとして二人の内親王を可愛がっていたことは察するに余りあります。

同じく妹の子である禎子内親王も大事にしていましたが、後一条の娘達には遠く及ばなかったと思われます。

 

もし二人の内親王に皇子が生まれていたら?

やはり禎子内親王と同じように冷遇されたのか、それとも彰子の力添えにより冷遇はされなかったのか。

同じ藤原氏の母を持つ内親王でもなぜここまで扱いが違ったのかを考えるのは、楽しい想像です。

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と勝手に呼んでます。

全く意味が判らないです。

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そう考えるしかない程、他に理由が考えつかないです。

 

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という人もいるかもしれませんが、そういう案件とは種類が違います。

空案件はハナから採用する気はないのです。

 

理由はどうあれ、応募するワーカーの立場からすると迷惑この上ないです。

人を採る気がないなら募集しないでくれ!!と強く言いたいです。

テレ東の午後のロードショーを録画して見ています。

面白い映画もありますが、ほとんど面白くなかったりします。

はずれが多いです。

それでも見るのはなんだかんだ言ってアメリカ映画が好きなんだと思います。

アメリカの風景とか、家の内部とか、雰囲気とかが見たくて映画を見てる部分もあります。

前世はアメリカ人だったのかと思うこともあります。

やってる時間帯も午後の気だるい時間帯なのがいい感じ。

これからも長く続けてください、テレ東さん。

私が唯一見てるテレビ番組ですから。

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「ATIDIMU(アティディム)」というブランドをご存じでしょうか。

ATIDIMUは大人のためのメンズスキンケアブランドです。

 

 

初めてこのブランドを知った時、商品のデザインの美しさにうっとりしました。

 

上品でシンプル。

黒を基調とした潔いデザイン。

静謐さを湛えた高級感。

 

商品が並んでいる様子は、さながら武士が凛として立っているような・・

そんなイメージが湧き起こりました。

 

華やかさよりも、余計な物をそぎ落とした美しさに惹かれる私にとって、ATIDIMUの商品は私の好みそのもの。

まさにドストライクなデザインにノックアウトされてしまいました。

 

女性のコスメブランドでもこんなブランドがあればいいのに、と思いました。

さすがに女性の私がメンズスキンケア商品を使うのは躊躇するので諦めますが、

彼氏や旦那さん、もしくは男性の上司や同僚など、

男性諸氏のプレゼントにお勧めしたい商品だな、と思わされました。

 

男性へのプレゼント探しをしている女性の方、

また男性で、自分に合ったスキンケア商品を探している方がいましたら、

参考になればと思います。

よろしければ読んでいってくださいね。

 

 

1.ATIDIMUの商品について

 

ATIDIMUは乾燥肌、脂性肌、敏感肌とさまざまな肌質の方に対応しています。

すべての商品に安定型レチノール誘導体を配合し、優しく肌に寄り添い、敏感肌の方にも低刺激です。

 

香りは、ベルガモットやミントなどの天然精油をベースとした清潔感のある香りで、「深呼吸できる静けさ」のコンセプトの通り、静かに控えめに寄り添います。

 

そしてすべての商品は国内製造という安心さ。

毎日使う物だからこそ、丁寧に、誠実に作られています。

ATIDIMUのこだわりを感じます。

 

 

2.価格は?種類は?

 

ATIDIMUの商品は4つあります。

 

①    洗顔フォーム 4290円

②    化粧水 5445円

③    美容液 10780円

④    乳液 5390円

 

シリーズで使う場合は、

洗顔→化粧水→美容液→乳液の順番に使います。

 

①洗顔フォーム

毛穴汚れや皮脂を落とし、保湿成分が洗顔後のツッパリ感を防ぎます。

ストレスや乾燥を受けやすい現代男性に向けた商品です

 

②化粧水

高保湿でさっぱり処方の化粧水です。

男性特有の皮脂バランス、乾燥、キメの乱れに着目し、髭剃りなどでゆらぎやすい肌を整えます。

 

③美容液

男性の肌のために設計された集中美容液。

べたつかず、軽やか。

肌をなめらかに整え、清潔で引き締まった状態にします。

 

④ 乳液

うるおいをしっかり閉じ込めつつも、べたつかずさらりとしています。

朝晩どちらのケアでも使えます。

 

①~④

4つの商品すべてに安定型レチノール誘導体が配合され、

男性特有の皮脂詰まりや乾燥、ストレスにゆらぎやすい肌に配慮しています。

控えめな天然精油ベースの香りで、使用後は清潔感を高めてくれます。

 

(注意)

・ただしすべての方に刺激が起こらないわけではないので、異常を感じた場合は中止し、医師に相談してくださいね。

・またレチノール使用の注意として、初めて使う場合は2、3日に1回夜から試していくのが安心ですので、初めは少しづつ試してください。

・妊娠・授乳中の女性、皮膚科治療中の方は使用について医師にご相談ください。

 

 

3.プレゼントにお勧めなATIDIMU

 

 

 

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お値段的には安くはないですが、その分、国内製造という安心感を得られ、良質で高級感のあるプレゼントとして使うことができます。

 

またデザイン的にもシンプルで静謐さを湛えた佇まいがかっこよくて、個人的にかなりデザインに惚れた私は、こういうプレゼントを贈れる女性になりないたな~と思わされました。

 

「いつもお疲れ様!」な労いをこおめて、

また「スタイリッシュでかっこいい男性になってほしい」な願いをこめて、

よろしければプレゼントに使ってみてください。

 

また男性自身が自分へのプレゼントに購入するのもありではないでしょうか。

 

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