吾妻ひでお先生が亡くなられました。

 

私の駆け出し時代の1994年、

21歳の時にコンプティーク誌の拙文

『空軍大戦略』連載の挿絵が

吾妻先生に決まった時はびっくりしました。

 

 

 

 

保谷駅前の喫茶店でよく打ち合わせをしましたが、

私は常に緊張しっぱなしでした。

ちなみに先生の挙動もたまにおかしかった。

ちょうど失踪とアル中の間の時期だったように思います。

 

本誌で一時期、私の猿1号としてのプロフィールだけ

吾妻ひでお先生に描いていただきました。

 

 

私は今だから言いますが当時、

猿1号というペンネームが嫌いでした。

「無能なバイトの猿」と

ついたあだ名そのままだったから。

それでも読者の人気もあるからと、

それでコンプティークで書けるならと

そのまま使うことになりました。

それが吾妻先生に書いてもらって

好きになりました。

 

あらためて当時の連載を見返すと、

先生にこうして自分のことを

描いていただいたことは夢のようです。

 

私は本当に恵まれていたのだなあ。

先生ありがとうございました。

 

偉大なる作家に合掌。

 

日野百草