このシリーズ、前回(↓)から二か月ほど開いてしまったが・・

 

    今回は歴史編を簡単にまとめてみた・・。簡単とはいえ、参考資料から紐解くもなかなか手強く自分でもどこをどう走っているか分からない時があり、分かりにくい記述になってしまった点は予めご了承頂ければ幸いである・・。

 さて、今回シリーズのメインであった北大阪線であるが元々は阪神軌道線の代替・・というのは既に述べた通りで、軌道線開業に当たっては幹線道路を新設し、中央に軌道を敷き、両側は一般への道路提供という形で当時は道路共々所有権は阪神電鉄だったとのこと。

 一方の国道線は阪神国道電軌という別会社を仕立て野田~東神戸間が開通しているが、後に電鉄本体に吸収された。

この路線沿いにバスを直営で1929年7月より走らせ、1931年には尼崎~神戸市境(西灘村)までの国道バスが走ることとなった。しかし、その後傍系事業としての性格を一貫する狙いで1933年に「阪神乗合自動車」を設立し、これらの路線を譲渡して一旦直営は消滅しているが、このタイミングの時に野田~梅田新道(うめだしんみち)まで延伸している。今のラジオ道路情報で「うめしん東より・・」などと呼ばれるのはこの梅田新道のことである。なお、この阪神乗合自動車は今の「阪神タクシー」である。

 

 またこれとは別に阪神国道にバスを走らせようという事業者が多数出て、結果その中から選出された8社で合同経営という形で1929年より「阪神国道自動車」が走り始めた。翌年には西大島~宝塚間で当初、鉄道敷きを予定で工事が進むも途中で道路化して営業したことで知られている「宝塚尼崎電気鉄道(尼宝電鉄=にほうでんてつ)を合併、さらに1932年には阪神国道バスと合併、翌年に上記阪神乗合とも併合している。

 

 この後、大戦により経営難に陥っていた阪国バスを1949年に合併、再び直営事業とした。また戦時運休していた阪神間直通運転を復活させ、1953年8月より大阪内本町の「大阪バスセンター」へクローズド・ドア方式で乗り入れを開始した。このバスセンターには在阪私鉄系の阪急バス、京阪自動車、近鉄、南海の各社が乗り入れている。ここでこの当時の路線図を載せておきたい。

 図は「輸送奉仕の50年(1955年阪神電鉄発行)に綴じ込んである沿線案内から、先ずは大阪側。下の拡大図の如く、野田より東、梅新及び内本町で記載がある。当然ながら野田より北側の北大阪線は軌道線であるが、停留所名は後のバス停名と一部を除きほぼ同じ。

 こちらも同年史掲載写真からで、内本町バスセンターで休む阪神バス。隣の日野BH?は南海電鉄である。阪神はいすゞ-川崎航空でナンバーは横長ナンバーに見えるが、そうなると撮影は1955年以前となる。

 続いて神戸側。こちらは今と大きく変わっていないが、三宮~税関前のルートのみ今と異なっており、税関周辺のループが今と逆位置で西側になっているように見える。只、当時をリアルでは知らない世代なので、実は実際は今と同じでデザイン上こう描かれている可能性も否定出来ない点はお含み頂きたい(→その後、1960年代の古地図から、当時の阪神電鉄バスの路線が上図通り、西側ループに張られていたことが確認出来た)。

 この当時の「大阪梅田新道」表示の方向幕を掲げた写真が掲載されていた書籍を発見したので、併せて載せておきたい。神戸市電の記録の書籍であるが、日野BD34?-西工のリアが写り、方向幕にはしっかり「大阪梅田新道」と出ている。神戸でこの行先を表示している阪神バスの写真は私は他に見たことが無く貴重な1枚であろう。

 

 またまた時は進み、いよいよ国道線撤退、バス代替の動きが本格化していく。1969年12月14日、東神戸~西灘間廃止。この時点で神戸市電と結ばれていた軌道も絶たれ、「みなとまつり」の際の、名物「花電車」も乗り入れ出来なくなった。次いで1974年3月17日西灘~甲子園間廃止、最後まで残った区間も1975年5月5日で廃止、国道電車は過去の物となってしまった。なお、前年にはバスの野田~梅田新道間も廃止となっている。他、歴史が前後するが、1963年には第二阪神国道(国道43号線)上を開設時期不明ながら阪神西宮~梅新まで営業開始、第二阪神国道(国道43号線)上のバス路線では神戸市バス65系統(中突堤~阪神打出=はんしんうちで)と共同運行であった中突堤~阪神西宮間が1970年7月に廃止、翌年には阪神西宮~野田間が廃止されている。バスも一時期神戸~大阪間で阪神本線を挟んで国道2本とも路線を張っていたのだ。

 

 さらに時は進み、社会情勢も変わりバスも再び直営の手を離れ、国道系統も芦屋分割折り返しを経て、今は西宮で分離されてしまった。北大阪線については社史でバス転換後旅客逸そうが激しいと記述されていたが、沿線の工場も相次いで移転、乗客減少に歯止めが掛からず、加えて「天六」という場所が現在では中途半端で何より梅田へ直接出ることが出来なかったことが大きく、さらに乗客減少で大きなダイヤ改正毎に減便を繰り返し、今般ついに休止に至ったものである。

 私自身は最盛期を知る世代ではないが、それでも国道線は尼崎~三宮通しの時代に何度か全線乗車もしている。しかしこの区間は鉄道が完全に並行してしているので、殆どが区間乗車であるし遠しで乗る人間は余程の好き者であろう・・。

 では最後に少し昔の阪神バスで国道線関連の行先表示を並べてみよう。

◇三宮(税関前)

 西の基点、三宮税関前表示であるが「神戸税関前」であった表示も一頃「神戸三宮を経て」という表記が入っていた。「三宮」という神戸の繁華街を通る、ということを表しているのであるがやはり「三宮」という地名はステータスなのであろう。

◇西灘

 続いて国道線の終点であった「西灘」

通常のダイヤであったのか無かったのかは不明であるが、軌道線代替バス路線だけにこういったレア物も収録されていた。なお、例の大震災時の鉄道代替バスは西灘~三宮の区間運転もあったがこの表示は出さず「阪神電鉄」であった。この区間はあくまでも不通区間の鉄道線代替であり、西灘からは通常の大阪梅田まで鉄道が走っているからであり「西灘行」という解釈では無いためであろう。

◇甲子園

 特に珍しい、という表示ではないが、阪神=甲子園を連想される方も多いであろう。「阪神甲子園」というだけで何か野球を連想してしまうほどの文字列である。なお、写真は浜田車庫前で乗務員交代時の物。ここはロングラン系統の乗務員交代場所で、今でもそれは変わらない。

◇西大島

 これは先に記述した尼宝電鉄の南側の基点ともいえる「西大島」表示。一見起終点には見えない停留所であるが、表示も収録されていた。

◇尼崎浜田車庫前

 かつての国道線同様、車庫である「浜田車庫前」表示。阪神独特の小さい地域名表示が楽しい。

    以上、ざっと年史抜粋で阪国バスの歴史に触れてきたが「休止」カバーの付いた標柱に一抹の寂しさを覚える。その内に気が付けば標柱のそものが撤去されていた・・ということになるのであろう・・。

参考文献:輸送奉仕の50年・阪神電気鉄道80年史・同100年史(いずれも古本屋などで購入した筆者所蔵本より)。