オリンピックで、柔道やフェンシングなどでは、日本人選手も健闘している。

日本人選手は死ぬほど練習しているので、それは掛け値なしに努力の成果だ。

だからぼくたちは、彼らの努力と成果に惜しみない賛辞を送って当然だ。

 

オリンピックは肉体の競演であり、日本人にはその点どうしても不利である。

その人がどのような肉体をまとうかは、遺伝子次第だからだ。

黒人のアスリートの肉体美を見よ!まさにサラブレッドだ!

 

 

黒人女子選手はトラックに立つだけでも、周りを圧する空気を放つ。

長い腕・脚、無駄な肉は無い、発達した筋肉。それでいて足首やふくらはぎは細い。

車に例えればポルシェやフェラーリで、速く爆走するに決まっている。

 

陸上の日本人選手は、決勝にはなかなか残れないが、当然だ。

サラブレッドのような黒人選手と競おうということ自体が、まず無理だ。

戦国時代の武士たちが乗っていた日本在来馬も、背が低く小型だったそうな。

 

陸上競技だけでない。あらゆるスポーツで、黒人選手はその肉体的優位を誇る。

ボクシングでもラグビーでもバスケットでも、筋肉ムキムキの選手が活躍する。

バスケの日本人最高のプレーヤーである八村塁は、遺伝的に半分黒人である。

 

 

スポーツは、やはり黒人・西洋人のものだ。彼らがするのが、よく似合っている。

江戸時代の農民は、人生において走るということをほとんどしなかったという。

そりゃそうだ。野良仕事に、走ることも跳ぶことも一切必要ない。

 

そもそも、スポーツが日本に入ってきたのは明治の世になってからである。

西洋列強に伍すための富国強兵策に伴い、学校教育の体育に取り入れられた。

だから、日本のスポーツは戦争遂行と深い関係があるのだ。

 

徒競走でビリになったり、水泳で息継ぎができなかったりすることに、

一生の劣等感を覚えるようになったのは、スポーツの登場のせいである。

速く走れなくて、25メートルが泳げなくて、何が悪い!

 

有名プロスポーツ選手は、ふつうの人の年収の何十倍・何百倍・それ以上を稼ぐ。

オリンピック選手はアマチュアスポーツの頂点で、まさにエリート中のエリートだ。

つまり、スポーツはまちがいなく「人の上に人をつくった」のだ!

 

受験戦争と同じように、スポーツも公正明大な実力競争なのだ…と思い、

誰もが疑いもなくスポーツを受け入れ、生涯にわたってつき合う積りでいる。

でも、なんで人はスポーツで勝負したり競ったりしなくちゃならないんだ!?

 

オリンピックは、ローマ帝国時代の残酷なコロッセオの闘技が原点だ。

剣闘士や猛獣が互いに殺し合い、その様子を観客が観て興奮して楽しむ。

ぼくは、スポーツは”人殺しや戦争の代替”としてやっている…と思っている。