八丈島の流人 | 過去から学ぶことばかり

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2016年からは産駒応援にも力を入れています♡


先月、三宅島にて流人について学んできましたが
(そのときの記事はこちら →  )
今回、八丈島でさらに知識を深めることができたのでまとめていきたいと思います。


【伊豆七島への流罪人】

伊豆七島への流罪は、東日本で捕まった人たちでした。

初めは伊豆七島全体が流罪地となっていましたが
大島は本土に近すぎること、小さな離れ島は島人・流人ともに大変だということで
寛政8(1796)年に、新島・三宅島・八丈島のみになったそうです。
(ただし例外もあり、その後、青ヶ島等に流された人もいます)

流罪判決を下した奉行所は下記のとおり↓↓↓

町奉行……一般人
寺社奉行…寺社関係者
勘定奉行…武士・天領領民

罪人たちは流罪判決を受けると、一旦、小伝馬町の牢獄に収容され船出を待つことになります。
(身分性別により、部屋や待遇に差がありました)

当時、殺人や放火は死罪だったため
罪状の多くは博打や喧嘩等、今なら微罪にあたるものでした。

(生類憐みの令など、理不尽なものもあったようです)

流刑地までの移動は、初めの頃は、幕府の御用船で運ばれていましたが
将軍綱吉の時代から流人の数が増えたこともあり、春秋の年2回に定例化されました。

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八丈島の流人は、慶長11(1606)年の宇喜多秀家主従が最初で
その後、明治4(1871)年までの約265年間に約1900人程いたそうです。

「八丈島歴史民俗資料館」の資料によりますと…

江戸時代の流人は
大島に約150人、利島に約10人、新島に1333人、神津島に83人
三宅島に約2300人、御蔵島に50人、青ヶ島に6人と記されていました。

えっ…
三宅島、2300人!??

先日、三宅島郷土資料館で見た資料には
「三宅島には明治新政府による流刑者38名を含み総勢1329名」と記されていたのですが。

いきなり人数が合わなくてビックリ Σ(゜Д゜)

どうやら、「流人」という表記には
罪を犯した者(流罪人/流刑者)と、付き添ってきた者が含まれているそうです。

なので、三宅島への流刑者は江戸時代に1291人、付添人が1000人くらいいたと考えられます。

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【浦賀番所~八丈島】

浦賀番所は、浦賀奉行所の支配下にあって
江戸湾に出入りするすべての船の管理と徴税を行っていました。

小伝馬町の牢獄を出発した流人は
永代橋や霊岸島などから出航し、品川を経由して、浦賀に向かいます。

(浦賀にて罪過と本人の確認)

船には「御用」の旗を掲げ、抜け船(流人が船を抜け出して逃げること)を警戒し
「七五尋触れがかり」と言って、約130m以内に他の船が近付くことを禁じたそうです。

八丈島での抜け船騒動については
来る途中の事件が6件(15人が関与)、島での事件が18件(85人が関与)記録に残っています。

ちなみに、抜け船事件で成功したのはたったの1件。
(事件の話はまた後程)

八丈島に送られる流人は、一旦、三宅島で降ろされ
春船で来た者は秋まで、秋船で来たものは春まで、待たされることになります。

この船待ちの制度については
廃止が何度も訴えられたそうですが、なぜか廃止されることはなかったそうです。

船が三宅島の伊ヶ谷に着くと、三宅島の流人たちが
丁寧に荷物を運んだり、宿に案内してくれたり、食事や入浴の世話をしてくれたそうですが…

それが一段落すると、流人の身分では払いきれないような法外な賃金が要求され
三宅島に到着したばかりの流人たちは、次の日からはさっそく乞食をして門々を廻らなければならなかったそうです。

その後、三宅島から八丈島へ向かいますが
八丈島の海岸は、玄武岩溶岩と荒波のため直接船を着けることが困難でした。

そのため、安山岩質の玉石の浜に船を近づけ、小さな漁船で人や荷の上げ下ろしをすることが多く
宇喜多秀家も、前崎海岸(玉石で埋め尽くされた浜)に上陸したといわれています。

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【八丈島での生活】

流人が定期的に送られるようになってからは
上陸すると島役人が掟(内証便・抜け船の禁止)を言い聞かせ、抽選によって村の割り当てが決定されました。

また、村では9尺2間の掘立小屋が与えられたそうです。

生活は「当人渡世勝手次第」の自活生活で
禁止のはずの水汲女(現地妻)も認められていました。

ただし…

農地の少ない八丈島は、年間を通して五穀や野穀が不足がちで、当時、飢饉の島だと言われていました。
(流人たちは八丈島への流罪判決がくだると絶望感に襲われていたのだとか…)

大暴風により所作皆無の年には600人以上が餓死したとの記録も残っています。
(他にも飢饉の際は、数百の単位で死者が出ていたようです)

そのような島で、平常から食糧生産の方法を持っていない流人たちは
飢饉の際、海に出て魚や貝、海藻などを採ったり、野山で野草や木の実を集めるなどして飢えをしのいでいました。

海で波にのまれて溺死した人や、毒草を食べて亡くなった人もかなり多かったそうです。

そんな状況だったため、ときには、流人たちによる騒動や犯罪もおきたそうです。
(特に将軍吉宗以降は流人も多くなり、犯罪も増えたとのこと)

しかし、流人たちの中には文化人も多くいたことから、産業や生活、学問、文化に大きく貢献した部分もあり
島民といい関係を築くことができていたという一面もあります。

そのため、流罪人が許されて本土へ帰るときにはお祝いとして
島民より「御赦免(ごしゃめん)料理」が振る舞われたともいわれています。

※現在も八丈島には「御赦免料理」を出す飲食店があります。
(↑ある程度はイメージのようで郷土料理的な感じらしいです)

ちなみに…
明治維新の大赦では、八丈島在島流人236人のうち、明治元(1868)年と2年に211人が赦免され
明治2年と3年に、さらに62人が配流されましたが、明治14(1881)年には全員が赦免されたそうです。

才覚のある者は、本土からの援助などもあり、生活は苦しくなかったようですが
そういった人はごく僅かだったと伝えられています。

将軍綱吉になるまでは、流罪は少なく(記録では80年で3回22人)
その後も、武士や僧侶が多く、流人は尊敬されることが多かったようです。

しかも、元文2(1737)年までは武士は帯刀まで許されていたとのことです。

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【事件】

元文2(1737)年「佐野新蔵事件」

元文2(1737)年の飢饉の際、飢餓に迫られた佐野新蔵はひそかに他の流人たちと徒党を組み
漁船の水夫をだまして船を奪い、陣屋には火を放ち、集団で島抜けしようという大々的な計画をたてました。

計画はかなり進んでいましたが、途中で、流人の星野次郎八郎の内訴により計画が露顕し
捕らえられて佐野新蔵と外3人は、三根村の宇右衛門ヶ嶽から突き落としの刑となりました。
(他の12人は島替え)

この事件以降、流人の帯刀は禁止されたそうです。

※※※

天保9(1838)年、八丈流刑史の中で唯一成功(本州に無事上陸)した脱走事件が起こりました。

脱走事件のリーダーは佐原喜三郎。
博打の胴元として天保7年に流罪となった人物です。

喜三郎は、島の気象や海流を観察し、食糧の準備も万端にして、天保9年7月3日、7人の仲間と船出しました。

7人の中には、吉原から流れてきた花鳥という、島で喜三郎と恋仲になった女もいました。
(花鳥は、付火の罪で15歳で流され当時25歳だったとのこと)

難風にも遭ったそうですが、7月9日、鹿島灘・荒野浜に着岸。
ただし、生還者は、喜三郎、花鳥、百姓の九兵衛の3人のみだったそうです。

しかし…
3ヶ月後、喜三郎と花鳥は江戸で捕らわれ、花鳥は斬首、喜三郎は牢名主になりました。

喜三郎は、「朝日逆島記」という体験記を執筆し、それが評価されたことで
罪が軽減され、その後、弘化2(1845)年5月9日に釈放されますが…

出獄後、すぐに病死(享年39歳)したとのことです。

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【宇喜多秀家の話】

宇喜多秀家は、豊臣秀吉の養子であり、岡山57万石の大名で、五大老の一人でもありました。

慶長5(1600)年9月、関ヶ原の合戦が起こると
石田三成率いる西軍の副将格として1万6千の兵を率いて参加しますが
小早川秀秋の寝返りによって西軍は敗北。

秀家は大阪から島津義弘を頼り薩摩へ遁れ
島津氏の庇護のもと、2年程、桜島の麓の平野家に身を潜めることになります。

しかし…
その後、徳川の手に落ちてしまいました。

慶長8(1603)年、島津忠恒、前田利長の助命嘆願により死罪を免れ
駿河国久能山(静岡市)に幽閉された後、慶長11(1606)年4月、八丈島へ流罪となります。

八丈島へは、息子2人の他に
妻の実家である金沢の前田家の配慮で医者を含む主従を含め13人で着島しました。

八丈島での生活は、前田家からの仕送りを受けていても厳しかったそうです。

その後…
秀家は、在島50年、明暦元(1655)年11月20日に84歳で病没しました。


【前田家からの仕送りについて】

1年おきに白米70俵と金子35銭、衣類、雑貨、薬品などが送られていたそうです。
この仕送りは、明治維新の恩赦まで続いたとのこと。

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【第8回日本城郭検定 2級】

2016年6月19日(日)受験
宇喜多秀家に関する問題がありました。
しかも私、小早川秀秋と解答して間違えました…((+_+))

一番間違えてはいけない二人な気がします。涙

問21
豊臣秀吉の猶子であり岡山城主であったが
西軍の副大将として関ヶ原の戦いに臨み、その後八丈島に流罪となった戦国大名はだれか。

1.小早川秀秋
2.宇喜多秀家
3.浅野長政
4.安国寺恵瓊

基本的に日本史に疎い私は(疎すぎることがさらに露見…)
この問題のヒントの数々を見ても「岡山城主は誰か」からしか、知識を引っ張ってこれなかったという…

でも、今回の試験での間違えと八丈島での学習により、バッチリ覚えました!!!
もう二度と間違えません!!!笑

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【おまけ】

八丈島の流人の歴史において
将軍吉宗(1716年就任)以降、博打などが多くなり事件が増えていったとあったので…

せっかくなので
以前まとめた「賭博の歴史について」の記事もご紹介 → 

↑ あまり関係のない話ですが。


と、いうわけで…
今回は以上です (^^)/

文章をまとめるのが難しくて
UPするまでに時間がかかってしまいました (;^_^A

何度も読み返しすぎて
どこがおかしいのかも、もうわからなくなりました…