一言でサイキックアタックとはいっても、送られる感情とその背景には様々なものがあります。怒りや憎しみ、恨みなどは最悪ですけれど、相手を頼る気持ち、SOS、そして一見愛のように思えるエゴイスティックな思い、例えば恋愛感情などもネガティブな影響となって相手に伝わることがあります。

 

 森先生を頼る気持ちは、よく届きます。病院に入院中の方などから届くと(病院がそうであるように)消毒薬のような臭いが漂ってきたりします。そういうときは森先生の腰や背中が凝るそうです。

 

 でも、そうしたサイキックアタックについては仕方がないことですし、私達も全く問題にはしません。むしろ送ってこられる相手様(クライアント様)のことが心配だし、気の毒に思ったりもします。

 

 サイキックアタックはほんの少し相手に意識を向けただけでも発生することがあります。ほんの少し森先生のことを考えただけなのに、その方が特に霊的に素質のある方だったりすると、まるで強いサイキックアタックのようにこちらへ届くことだってあるのです。

 

 そういう場合のサイキックアタックは特に大した影響はありません。例えば、スーパーで買い物をしたり二人でお散歩しているときに、クライアントそっくりの人(もちろん全く赤の他人です)とすれ違ったりするのです。まるでそのクライアントの使いであるかのように、私達はその人を見てそのクライアントを思い出されるのです。

 

 サイキックアタックで最も面倒なのが、妬みや嫉妬、羨望によるものかもしれません。

 

 エゴイスティックな恋愛感情を森先生に抱いている方がいらして、その方の妬みの感情がサイキックアタックとなって私に来ていたことがありました。おそらくその方は森先生と同棲することを夢見ていらっしゃったのでしょう、私が台所に立つと、その方からのサイキックアタックでフラフラになるのです。

 

 水がサイキックアタックを伝えやすいということを以前にお話ししたかと思いますが、台所はまさに水だらけの場所ですから、特に洗い物をするときなどは倒れそうになるくらいの意識の低下が起こります。

 

 

 台所は相手の男性と同棲を夢見る女性にとって象徴のような場所なのかもしれません。その方は私に森先生の台所に立って欲しくないのでしょう。そして、もしかしたらその時その方はひとりぼっちで自分の台所に立っていたのかもしれません。

 

 台所で強いサイキックアタックを受けてしまうことはこれまで頻繁にありました。困るのは、私が洗い物の最中に怪我をしてしまうことです。洗い物を片付けて手を拭くと、必ずどこかが切れていて血が出ているのです。

 

 おそらく洗い物をしている間に気付かず手を切ってしまうのでしょう。その時何も痛みを感じず、手を拭いたあとからヒリヒリと痛みだすのです。そんなことが一時期毎日のように続きました。

 

 

 そのうちやたらと手を滑らせてコップや皿を落として割ってしまうようになりました。割れたものを片付けているときに、やはりまた簡単に手を切ってしまうのです。

 

 

 その現象はさらにエスカレートします。ある日泡まみれの包丁を足の上に落としてしまいました。幸い怪我はしなかったものの、その後も何度も何度も同じことがあったので、今では包丁だけは洗剤で洗った後にすぐにすすぎを行い、濡れたままシンク下の包丁刺しにブッ刺して片付けるようにしています。洗い終わるまで手から離さないということです。

 

 

 そんなある日のことです。カボチャを切ろうとして包丁を入れた後、抜けなくなってしまいました。力いっぱい引き抜いたその反動で・・・押さえていた左手をバッサリ切ってしまったのです。

 

 森先生のチャネリングではこれら全て、彼女からのサイキックアタックが原因でした。どうやら彼女は森先生の側にいる私を殺したいくらい憎んでいるようなのですね。

 

 彼女はどうにかして私を追い出して、この家で森先生と懇ろ(ねんごろ)になりたいと、意識的にか無意識にかはわかりませんが、そう思っているのでしょう。

 

 エゴイスティックな恋愛感情と申しましたが、恋愛感情とはそもそもエゴイスティックなものです。通常は無条件の愛にはなり得ません。ですから、こうしたことはごくありふれた日常の現象だといえるでしょう。特別なことではないのです。

 

 サイキックアタックとはならない愛情とは 無条件の愛 以外にないのですが、そうでない場合、母親が我が子を思う気持ちでさえサイキックアタックになり得ます。子供への執着やコントロール欲求、支配欲などが強い場合、子供は母親からのサイキックアタックに苦しむのです。

 

 私が幼稚園時代をかろうじて思い出せるエピソードの一つにこんなものがあります。先生から母親への連絡帳のメッセージにこう書かれていたのです。

 

 「すぐに疲れちゃうひなたちゃん。いつも疲れた、疲れたっていうのですね。」

 

 それを読んで母親が激怒し、「子供が疲れたなんていうな!」と叱られました。「疲れるもんは疲れるんだししゃーないじゃないか」と小さいながら理不尽に思いながらも、母親の迫力に圧倒されたのを覚えています。

 

 確かに小さな子供が「疲れた」とすぐに口にするのは変です。おそらくその頃から私は母親からのサイキックアタックに曝されていたのでしょう。だからいつも疲れていたのです。

 さて―――、

 

 私達はヒーラーですから、こうして人から頼られたり、好かれたり、または妬まれたりするのが仕事のようなものです。ですから、サイキックアタックを受けるのも仕事のうちといえなくもないでしょう。仕方がないのです。

 

 しかしながら一般的に、皆さんがサイキックアタックを受けてしまった時、それをどうとらえたらいいのでしょうか?

 

 先ず、被害者意識をやめること です。自分の過去の言動がどこかの誰かを傷つけ辛い思いをさせているのかもしれない、対応を誤ったのかもしれない、と 自省 することです。

 

 あからさまに相手を殴って恨みをかい、その被害者から送られているサイキックアタックなのに、さも自分が被害者であるかのように「○○さんからサイキックアタックが来て大変!」と大騒ぎする方が稀にいらっしゃいます。これは非常に滑稽なことです。

 

 あるいは、過去に自分自身が誰かにサイキックアタックを送って、その誰かを苦しめた、そのカルマが自分に降りかかっているのではないか と疑うことです。

 

 カルマが返ってきているパターンは、実はよくあることかもしれません。不思議なもので、サイキックアタックに苦しんでいることを大げさに大げさに訴える人ほど、つまり 被害者意識の強い人 ほど、その本人が相手やその他の人にサイキックアタックを送っていたりするものなのです。

 

 被害者意識とは 意識が外向きで批判的 な態度のことをいいます。何か問題が起きたときに、それを自分の問題だと捉えず相手や誰か、何かのせいと捉え

批判する姿勢です。意識が外向きとは、自分を変えずに何とか周り(の人)を変えようとする態度ですから、被害者意識の強い人はむしろサイキックアタック(相手の方を変えようとするエネルギー)を送っている可能性が高いのです。

 

 それは逆にこうも言えるかもしれません。サイキックアタックで苦しんでいるときに、「この苦しみによって自分の過去に作ってしまったカルマが一つ解消されるのだ」と前向きにとらえなおすのです。

 

 このことによって気持ちも前向きになるでしょうし、もし本当にカルマの解消のために起こっていることであれば、そのカルマは少しづつ解消されることになるでしょう。

 

 カルマの法則とはそうした気付きを与えるための宇宙のシステムなのですから。

 

(続く)