ついに、私にも体調不良が訪れてしまいました。それはアウトパライゾからの帰りに車の中のことでした。

 

 帰りはアレックスの運転する車に乗せてもらったのですが、もうトイレは近いし、頭痛がしてくるし、咳が出てくるし、身体中がだるくて頭が働かず、ひっきりなしにしゃべっているアレックスの英語の質問に英語で答えるのがだんだん苦痛になってきました。

 

 カーサのあるアバジャーニアに帰ってから、ポウザウダに戻る前にレストランに入りましたが、その頃には身体がすっかり冷え、もう腰が痛みで限界で、起きていられない、座ってもいられないといった状況でした。私は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返していましたが、食事が終わる頃には冷えの影響か体中に神経痛が走り、体中の関節がギシギシとなり、歩くことも容易でないくらいになっていました。

 

 原因はやはり サイキックアタック なんです。

 

 どうして・・・((+_+))

 

 アバジャーニアにいながらこんなに体調が悪くなったのは、カーサ8年目にして初めてのことでした。よりにもよってこんなに大勢のメンバーに集まっていただいた特別なツアーで、私が体調を崩すなんて何事かと思いましたが、カーサツアーの2週目というのは自然とそれまでよりも一層静かに過ごすようになるものですので、おちゃらけ担当の今和泉はそろそろフェードアウトしならなければなりません。これからは森先生が一人一人個別に面接し、残りの時間を有意義に過ごすべくアドバイスする予定となっております。

 

 ところが私の目には皆さんの様子が一週目と全然変わらないように見えました。むしろもっともっと騒々しくなっているように思えるのです。一人で過ごす時はもっと静かにしているのかもしれませんが、どうもそうは見えません。それどころかちゃんと内観しているようも見えないのです。絶対この騒々しさを自室に戻ってからも引きずっているはずです。

 

 一度シレンシオに慣れるとそう簡単に騒々しくはなれないはずなのです。ちゃんと内観している人は他人の声が頭に響くくらい辛く感じられるはずですし、自分も声を発しようとは思わないものです。といいいますか、頭が働かなくなるはずなのです。話をするのも、聞かされるのも辛いといった状況になるはずなのです。

 

 特に女性陣の何人かはマインドが大騒ぎしているように見えました。話をしている人ばかりか、離れて一人でいる人も、皆頭のなかはマインドで一杯になっているのです。

 

 実際に話をしている人(話し手)はもちろん、その話の相手をしている人(聞き手)はその何倍もマインドを使わされるものです。そして、それを周りで聞きながら、「うるさいなあ」と思っている人は、お話をしている当事者たちよりもさらにマインドで一杯になるものです。

 

 マインドで一杯になるということはカーサのエネルギーを受けられないという状態をつくりだします。これでは、カーサに来た意味がありません。

 

 私はたまらず、森先生に全員の意識指数を測ってもらいました。すると、本当に私が心配した以上に何人かの意識指数が爆下がりしていることが判明しました。しかも下がっているのは前回カーサに来たメンバーとカーサ経験者ばかりです(!)初めてカーサに来られる方はみんなちゃんと上がっていましたが、カーサ経験者は二人を除いて全員が大きく意識指数を落としていました(!!)

 

 

 

なんじゃこりゃ・・・(-"-)

 

 

 

 私は森先生の個人面談に託しました。まずはセッションのない火曜日に何人か面接したと言います。しかし、その日の夜も次の日も、騒々しいままです。森先生は「いや、今日の面接はカーサ初めての人がメインだったから」などと言い訳します。

 

 私は翌日の水曜日に期待しました。しかし、森先生は皆さんにもっとシレンシオで過ごすように簡単に伝えただけで、意識指数が下がっていることをちゃんと伝えなかったというのです。そんなことをしたら傷つくでしょ、とか、気分が台無しになるでしょ、とか言い訳して。

 

 「そうやって生ぬるーく遠慮してるからいっつも手遅れになるんじゃん!!」と私は森先生に叱りつけました。

 

 私はもうこれは本当にマズイと思いました。もう木曜日です。相変わらず食堂は騒々しいエネルギーのままです。セッションはあと一日しかありません。しかも、水曜日と木曜日は私も森先生もエンチダージから指示を受けてカレントルームに入らず、ポウザウダの部屋で寝ていなければなりませんでした。

 

 それで木曜の夜、私が痺れを切らしてグループラインで皆様に申し上げた次第です。

 

 皆様、カーサ滞在も残りわずかなこの重要な時に森も今和泉も引きこもり状態となってしまい、誠に申し訳なく存じます。私達は休んでいるのではなく、私達の問題に取り組んでいるのでもなく、光と闇の相剋が激しくなっている現在において、エンチダージからの要請で、ミディアムとしての重要な役割を任されています。今夜(木曜の夜)が特に正念場とのことで、皆様にお願いの意味も込めて、重要なことをお知らせしたいと思います。

 

 お願いしたいことは、夕食後すみやかに自室に戻って静かに過ごして頂きたいということです。

 

 今回のツアーは手厳しい中間結果が出ています。これまでの滞在中の取り組み方、心の在り方がそのまま結果に現れています。私達は大きな意味で霊性向上を目指してカーサに来ているわけですが、その霊性を測る意識指数が、ある人は大きく上がり、ある人は大きく下がるという具合に、ハッキリと差が出ているということです。

 

 大きく飛躍された方は結構ですけれど、カーサにわざわざ来ているのに下がってしまうというのは私達が知る限り初めてのことで、大変に驚いております。

 

 下がった方は5人(※)もいらっしゃいます。全員女性で、しかも皆カーサ滞在が初めての方ではありません。その下がり方も、最小で60、最大で160というものすごい下がり方です。(※実際には4人でした。)

 

 該当すると思われる方は、猛省し、この大切な残り時間を心静かに、大切に過ごして頂きたいとおもいます。

 

 該当者のうち一人はすぐに自分のことだとわかって、素直にそう連絡してこられました。そして一人はショックを受け、帰国してしばらくするまで完全フリーズ。

 

 もう一方(ひとかた)は完全な巻沿いでした。車椅子だったため皆さんに気遣われるのでしょう、他のメンバーと些末な話をするうちに意識を下げられてしまったのです。その後手術のリビジョンのためにカーサへ同行しましたが、その時彼女はとても模範的なシレンシオを携えていらっしゃいましたからね。

 

 ところがこれで激怒された方が数名(下がった方も上がった方も)いらっしゃったと聞いております(笑) 後から「ツアーに問題があった。女性陣は皆不満だった」などと言うお声も頂きました。

 

 しかしながら、私達は全くそのように思っておりません。

 

 やり方が悪い、ツアーが悪い、というのはまさにそのまんま「批判」です。つい批判をしてしまうのはそれまで自分の内面にちゃんと向き合ってこなかったことへの証なんです。意識が外向きになってる証拠です。

 

 そもそも人の成長度を数字で測るのはどうなのか、といったご意見(=批判)も頂きましたが、この方の好きや嫌いに関わらず、霊的成長度が意識指数という数字で測ることができるというのは創造主の定義で真実です。デビットホーキンスはそれを発見したのであって、発明したわけではありません。(彼のオリジナルではないということです。)

 

 私が問いたいのは数字で測られることに違和感を感じる、その違和感の正体は何ですか?ということです。それを内観していただきたいのです。

 

 例えば、過去にテストでいい点を取れなくて叱られた経験、クラスでいちばん悪い点を取ってしまって恥ずかしい思いをした経験がおありだったとします。そうした過去の記憶とそれにまつわる感情が、今意識指数という数字を前に反応しているのです。だったら、その感情を感じて手放す、それを一人になってから愚直に行えばいいのです。

 

 半分名指しのような形で晒され傷ついたと訴える方もいらっしゃいました。しかし、その方は「自分が一番でなければならない」「私が見本にならなければならない」といった思い込みが強く、自分が一番になろうとして他者を観察し、ずっと自分と比較していたのです。もちろんそれは意識を外に向け続けているということです。

 

 他人を観察すること自体が批判だと前に申し上げましたが、批判的な態度というのは自分のエゴに固執することでして、決して内観する態度ではありません。

 

 意識指数は確かに数字でわかりやすい上下があるわけですが、それは他者と比較するためのものではありません。どうしても比較したいのだったら過去の自分と比較するべきでして、数字が他者と比較するためのものに見えるのでしたら、それは自分の思い込みが原因となる認知の歪みだといえます。

 

 一番になりたい、一番でなければならない、という願望こそ見直さなければなりません。それは、一番でなければ、優秀でなければ愛されないという思い込みに基づいています。つまり 条件付きの愛を無条件の愛の代わりにしている ということです。

 

 そうした条件付きの愛にしがみついていると、カーサのエネルギーは決して感じられませんし、カーサの恩恵も受けることはできません。カーサのエネルギーは無条件の愛のエネルギー だからです。

 

 人は無意識に無条件の愛を欲しているものなのです。それが簡単に得られないから他のもの(条件付きの愛)で代用しようとしているわけです。その条件付きの愛というのがこの方の場合、一番でいること、優秀でいることによっていい気分でいること、他者から賞賛されること、なわけです。

 

 自己評価を高めるためにはどうしたらいいか、自己愛を深めるためにはどうしたらいいか、といった問題に対し、多くの識者が「まずは出来ない自分、醜い自分を受け入れること」と答えるのを誰でも聞いたことがあるかと思います。それは愛着の観点から真実です。シンプルにそういう練習から始めてみてはいかがでしょうか。つまり、まず優秀であること、模範的であること、一番であろうとすることをやめるいうことです。

 

 優秀で模範的で一番の自分しか愛せないというのは、自己愛性パーソナリティ―に傾いた病的な状態です。心の安全基地が脆弱なため、他者からの賞賛でしか愛の欠乏感を埋められないという状況に陥っているわけです。自分が一番ではない状況というのは、即ちその人にとって安全を脅かされた状態に感じられます。だからこうして怒ったり再起不能なまでに落ち込んだりするのです。

 

 こうした人は自分を過大評価したり、過度に大きく見せようと自慢したり、自分を大きく見せるために他者にマウンティングしたり・・・といった行為を、習慣的に、ある意味中毒的に行います。そうやって一時しのぎの条件付きの愛を獲得しようとするのです。

 

 しかし条件付きの愛で満足できるのはほんの一時でして、決して本当に欲しいもの(無条件の愛)にはなり得ません。それはまるで薬物やアルコールのようなものだといったらわかりやすいでしょう。薬が切れると禁断症状が出るためさらに薬物に手を出す、それと同じです。

 

 彼女の場合、意識指数を気にすることが意識指数を下げている のです。

 

  思ったよりも意識指数が伸びない恰好悪い自分、醜い自分を認め、それがどうしたと開き直るくらいの発想の転換が必要です。

 

(続く)