聖ヨハネ・パウロ2世(St. John Paul II  1920年- 2005年)

 

 

 ヨハネ・パウロ2世(John Paul II  1920年- 2005年)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)であり、元教皇としては現在唯一のカーサ・エンチダージとして確認されています。

 

 本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)で、史上初のポーランド人教皇であり、また社会主義国初の教皇の誕生となりました。

 

 カロル・ヴォイティワは1920年、ポーランドのクラクフ近郊のヴァドヴィツェに生まれました。父親はハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人でした。しかしながらカロルは8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失いました。

 

 1939年、カロルが19歳のときにナチス・ドイツの侵攻によってポーランドが占領され、カロルが学んでいた大学が閉鎖されました。しかしながら鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優、脚本家としても活動しました。

 

 カロルは第二次世界大戦中の1943年に聖職者として生きることを決意しましたが、共産主義政権下で神学校の運営が禁止されていたため、非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日に司祭に叙階されました。

 

 優秀だったカロルは、司教の推薦でローマの教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学びました。そして1948年には「十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究」で神学博士号を取得しました。また、カロルはこの年にポーランドへ戻り、故郷クラクフの教区司祭として任務にあたりました。

 

 1958年7月4日、カロルはクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日に叙階。その時38歳でした。

 

 1962年に開始された第2バチカン公会議には、クラクフ司教および神学者として参加し、特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立に貢献しました。

 

 1964年1月13日、カロルは当時の教皇パウロ6世によってクラクフ教区の大司教に任命され、また1967年7月26日には遂に枢機卿となりました。

 

 パウロ6世の死後、ヨハネ・パウロ1世が教皇となりましたが、ヨハネ・パウロ1世は在位僅か1か月で謎の死を遂げました。その後1978年10月に行われたコンクラーヴェで次の教皇に選ばれたのがカロルです。彼は前教皇ヨハネ・パウロ1世の姿勢を継承しようとし、「ヨハネ・パウロ2世」を名乗りました。

 

 

 しかしながら彼はポーランド出身であることからバチカンの事情に疎かったため、ヨハネ・パウロ1世が生前推し進めようとしていたバチカンの改革についてはさほど成果を出せなかったと言われています。むしろ、教義の面では保守的でした。

 

 当時の世界情勢は東西冷戦末期でありましたが、カロルは世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践しました。そして、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする各国の民主化運動の精神的支柱として重要な役割を果たしました。精力的に世界中を飛び回ったため、訪問国は129か国にも及びました。その為、彼は「空飛ぶ聖座」と呼ばれています。

 

 彼は生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、キリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけました。

 

 プロテスタント諸派との会合や東方正教会や英国国教会との和解に尽力し、エキュメニズム(キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動)の推進に大きな成果を上げました。またキリスト教がなした過去の罪について、歴史的謝罪を活発に行っており、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応や十字軍の正教会やムスリムへの行為への反省と謝罪、ガリレオ・ガリレイの地動説裁判における名誉回復などを公式に発表しています。

 

 その姿勢は宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めています。

 

故ダイアナ元妃と共に

 

 ヨハネ・パウロ2世にとって、内部的には常にカトリック教会において存在する、保守派と改革派の対立構造の間のバランスをどのように取っていくか、また対外的には、複雑化する現代社会の諸問題の要請に、カトリック教会としてどう答えてゆくか、ということが常に大きな課題でした。

 

 彼の民主化運動を後援する姿勢は、当時のソ連を始めとする東側諸国の政府に脅威を感じさせ、後の暗殺未遂事件につながったとも言われています。また貧困問題・難民や移住者の問題などの社会問題にも真摯な取り組みを見せました。

 

 幼少期カロルは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになりました。

 

 キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により故国ポーランドが焦土と化した実体験から、戦争に対しては一貫して反対の姿勢を取りました。ポーランド人としてナチスと共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いたことは、教皇就任後も反戦平和主義を貫く大きな動機となったのです。

 

 

 1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はバチカンのサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャから銃撃されました。銃弾は2発命中し重傷を負いましたが、奇跡的に内臓の損傷を免れ一命を取り留めました。

 

 2005年2月にヨハネ・パウロ2世自身が著書でその時のことを「犯行は共産主義者によるもの」と発表し、その証拠書類が東ドイツで発見されたと述べました。それによると事件はソ連国家保安委員会 (KGB)が計画し、トドル・ジフコフ率いるブルガリア人民共和国、東ドイツなどが協力していたそうです。祖国ポーランドをはじめ当時の社会主義圏東側諸国における反体制運動の精神的支柱である、ヨハネ・パウロ2世の絶大な影響力を抹殺することが目的でした。

 

 一度目の暗殺未遂事件の翌年の同じ日である1982年5月13日、ヨハネ・パウロ2世が最初の暗殺未遂からの「聖母のご加護」に感謝を捧げるため、ポルトガルのファティマを巡礼していました。その際スペイン人司祭で超保守派のフアン・マリア・フェルナンデス・イ・クロン神父 (Juan María Fernández y Krohn) に銃剣で襲われ負傷しました。彼は教皇が進める第2バチカン公会議に基づく改革やバチカン=モスクワ協定に反対していたことが犯行の動機でした。

 

 教皇として歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長期間の在位でしたが、晩年は暗殺未遂で受けた重傷の後遺症や、パーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみの果て、2005年 9月17日に亡くなりました。