聖ドメニコ・サヴィオ Domenico Savio(1842-1857)

 

 

ドメニコには「神のもの」、サヴィオには「知恵深い」という意味があるそうです。僅か14年の生涯でしたが、彼の生前の生活はあまりにも聖徳であるとみなされ、後に聖人にあげられました。殉教によって若くして聖人にあげられた青少年は他にもたくさんいます。でも彼はそうした殉教者ではない聖人の中で、最も若い聖人となりました。

 

ドミニコ・サヴィオは、1842年4月2日にイタリアのトリノ近郊にあるリーヴァ・プレッソ・キエーリで生まれました。2歳の時に両親と共にモルアリドへ引越しています。そのモルアリドでのサヴィオの様子を、当時の村の司祭が報告書に次のように記しています。

 

ーモルアリドの村に赴任してまもなく、5歳くらいの小さな男の子が母親と一緒に教会に来るのをよく見かけるようになりました。その子の穏やかな表情と落ち着いた人間性、信心深い様子に、私や他の人達は目を奪われました。

 

 朝、彼が教会に来て扉が閉まっていると、それは見ものでした。同じ年ごろの少年たちがするように、うろうろしたり騒ぎ始めたりするわけではなく、門のそばまで来て頭を下げて胸の前で手を合わせてひざまづいて、門が開くまで熱心に祈るのでした。

 

-中略- 

 

 道で会うことがあればまだ遠く離れていても手を振ってくれ、本当に天使的な雰囲気で丁寧にまず先に挨拶してくれました。学校に通い始めてからは、瞬く間に進歩を遂げました。ただ賢かったからだけでなく、一生懸命勉強したからです。乱暴で、とても良い子とは言えない少年たちとも付き合わなくてはなりませんでしたが、彼が言い争っているのを一度も見たことがありません。何かの口論が起ると、彼は級友たちによる侮辱を忍耐強く我慢し、静かに抜け出していました。 

 

ー中略ー 

 

 教会の入り口で祈っていることに示された信仰心は、成長しても失われることがありませんでした。たった3歳で侍者ができるようになり、しかも大変集中して奉仕しました。毎日ミサにあずかるように努め、ほかに奉仕したい人がいれば会衆席からミサにあずかり、そうでなければ最も立派な態度で奉仕しました。(以下省略)ー

サレジオ家族霊性選集2「オラトリオの少年たち」より引用

 

 カトリックには聖体拝領というのがあり、初めての聖体拝領を「初聖体拝領(Primera comunión)」といって、それは正式に「自分の意志でカトリック教徒になる」という意味合いの特別な儀式となります。この時に当時カテキズムといってカトリックの教えを簡潔に要約したものを覚えていなければならなかったそうですが、サヴィオは7歳で全て暗記していました。この時代では通常11~12歳で初聖体拝領を受けるのが普通ですが、サヴィオはたったの7歳で晴れて正式なカトリック教徒となったのです。

 

この時の喜びようをサヴィオは、

 

「ぼくの人生でいちばん素敵な、すばらしい日だった」

 

と後に表現しています。そして、その時にいくつか自分自身に課した約束を本に書き記したのだそうです。

 

 

ぼく、ドメニコ・サヴィオの約束。1849年、7歳、初聖体をいただいたときに。

1、頻繁にゆるしの秘跡にあずかる。聴罪司祭が許可を与えるかぎり、毎回聖体拝領をする。

2、日曜日と祝日を、聖化する。

3、ぼくの友達はイエス様とマリア様。

4、罪を犯すよりも死を

※サレジオ家族霊性選集2「オラトリオの少年たち」より引用 (原文ママ)

 

 

 これは亡くなるまでずっと生涯サヴィオを導いた指標となりました。特にサヴィオの残した言葉で最も有名になった最後の件(くだり)は、後も繰り返し彼の言葉の中に出てきます。

 

ーマリア様、ぼくはいつもあなたの子どもでありたいのです。

清らかさに背く罪を犯すくらいなら、どうぞぼくを死なせてください。ー

 

 

 1852年、サヴィオが10歳の時、ドメニコの両親はモリアルドを離れ、カステルヌオヴォ近くのモンドニオという街へ移り住みました。サヴィオはそこでも現地の神父から賞賛され、モルアリドと同じような報告が残されています。そして、将来の司祭候補として期待を寄せられたサヴィオは、ついにドン・ボスコ率いるトリノの「オラトリオ」に連れてこられたのです。

 

 ここでヨハネ・ボスコ(通称ドン・ボスコ)と「オラトリオ」についてまず知っていただかねばなりません。

 

 当時のイタリアは統一運動と産業革命の真っ只中にあり、未来ある青少年たちの教育・育成がなおざりになっているという社会情勢にありました。特に大都会トリノの刑務所や少年院に収容されていた若者たちの惨状を見て、ドン・ボスコは非常に心を痛めたのだそうです。そこで、ボスコはこうした貧しい恵まれない青少年たちのために生涯を捧げることを決意し、活動を始めました。

 

 そして1841年12月8日、彼はトリノで「オラトリオ」という新しいスタイルの教育事業を始めたのです。

 

 オラトリオにはドン・ボスコの魅力にひかれて、わずか1年で数百名の生徒が集まるようになったそうです。彼自身が若者のより所となり、オラトリオは運動場、夜間学校、仲間作りと祈りの場となっていき、有志の人々の協力を得て、やがて寮、職業学校、普通科学校などが併設されていったそうです。

 

 オラトリオでもサヴィオは模範生であったのみならず、仲間たちからも慕われ多くの生徒達を回心させました。やがてサヴィオはドン・ボスコの期待に応えて、皆で力を合わせて良い学校づくりをしようと志す生徒たちをまとめて、一つの会を結成することになりました。サヴィオは熱心な聖母マリアへの信心の持ち主でしたので、その会の名を「無原罪の聖母信心会」(Compagnia dell' Immacolata Concezione)とし、友人らと共に会則も起草したのです。

 

 この会則が完成したのはサヴィオが亡くなる9カ月前、1856年6月8日のことでした。初代会長にはミケレ・ルアという少年が選ばれましたが、このルア少年こそ、後のドン・ボスコの活動を支え、ドン・ボスコの後継者となったドン・ルアです。

 

 後にボスコは1859年に「サレジオ会」という修道会を(正式に)設立するのですが、サヴィオの「無原罪の聖母信心会」からはルア少年ばかりでなく、多くの少年達が「サレジオ会」のメンバーとなってドン・ボスコの活動を支えました。

 

 サレジオ会はその後教皇から公式に承認されて教皇直轄の修道会となり、ドン・ボスコの理想を引き継いで、今も世界中で青少年教育活動を行っています。現在本部はローマに移され、イエズス会に次ぐ規模の修道会に成長しています。

 

さて、

 

 ドン・ボスコはサヴィオの死後、彼の伝記『ドミニコ・サヴィオの生涯』を書きました。

 

 

 伝記の中ではサヴィオのオラトリオでの様子の他、故郷の家に戻って亡くなったときのエピソードなども詳細に語られています。サヴィオは生前、「今まさに死に直面していて神父の祈りを必要としている人」のSOSを察知し、そこへ神父を連れていくという神がかり的な行いをいくつか行っています。また、祈りに我を忘れて、何時間も深いトランス状態のままでいるところを発見されたり、他に誰もいないはずの場所で「見えない何か」と対話を行っているかのような様子を目撃されたり…といったエピソードも、ドンボスコの慎重な語り口調で数多く紹介されています。

 

 サヴィオは14歳の若さで、肺の病気で亡くなりました。彼の死後、多くの仲間たちが彼を模倣して信仰深い生活を送ろうとしたのだそうです。そして皆が彼を聖人であるとみなし、天への取り次ぎを願い祈ったのだそうです。その結果、奇跡的な治癒が起ったり、望みが叶えられたというエピソードが数多く紹介されています。

 

 サヴィオの生涯が今日まで伝えられたのはこのドンボスコの伝記によって克明に記録が残されたからです。これは他の証言と共にサヴィオが列聖される審査のための重要な資料となりました。列聖されるには年齢が若すぎるという多くの意見がありましたが、こういった資料によって彼が日常生活の中でいかに聖徳を示したかということが明るみになり、充分その栄誉に値すると見なされたわけです。

 

 

 列聖は死後約100年、1954年6月12日に教皇ピオ12世によってなされました。

聖ドメニコ・サヴィオはミサの侍者、子供たちの守護者とされています。記念日は5月6日だそうで、日本の「子供の日」と一日違いなのが面白いですね。

 

サヴィオが幼少期を過ごしたモルアリドの家にて