さて、天孫降臨について書いてゆきます。

古事記や日本書記にも書いてはありますが

あくまで飛騨の口伝からお話しますね。



飛騨は日抱から来ているようですが

先祖から伝わる

池の周りに先祖を祀り

みなで池のほとりに座り

お日様を抱くように座り瞑想をする習慣が

飛騨にはあったようです。 

それを日抱の御霊鎮めと呼んでいたようです。


そうすることにより

精神統一が起き、未来のことが視えたり

わかったり

また、ヒーリング力が出来ることが

わかっていたと思われます。


私は催眠で潜在意識に落とし込んで

その力を引き出してゆきますが

昔の飛騨の民族は催眠など使わなくても

池の周りで瞑想することが未来予知などが

できる方法で、大事な要素だと

わかっていたのですね。


さて、

皆で日抱の御霊鎮めをしていると

ヒルメムチ(天照大神)さまが

未来、筑紫(九州)に外国から人が船にのり

やってきて、三つのグループがあり

その二つが互いに働かず

以前から住み着いているおとなしい人々らから

物を奪ったり殺したりというのが 

視えたそうなのです。


天の安川原(岐阜県大野郡宮村役場の裏の河原)

で、幹部会議をしてそれを伝えたところ

今は良くてもこれから大変なことになると

懸念しました。

そこで、ヒルメムチ命は

出雲から帰って来た(何故帰ったか?はのちに載せます。)多紀理姫、多岐都姫、市杵島姫の3人を

調査するために筑紫に派遣することにしました。


そのころ

飛騨の山にも寒冷化が始まり

飛騨に雪が降るようになり、また

外国の者が来たりで都を移そうという話に

なりました。

結果都を

大和にしようという事になり

天照大神の夫、思兼命が議長になり

筑紫を平定することになりました。


日本の古来は末子相続でしたので

末子の方は残り

二手に別れることにしました。

昔、三人の子の二人を飛騨の山から

降ろし、警備をさせましたが

長子は山のふもとを守らせ→山本に 

次男は山の下の下流を守らせ→山下に

末子は真っ直ぐの命と言われておりました。


ひとりは大和へ邇邇芸命が皇統命に位を

授けられて山から降りて行きました。

(天下り)

ヒルメムチ(天照大神)の息子

天津日子根命(アマツヒコネのみこと)は

一族で滋賀の彦根へ

そこに祖父母の伊邪那岐命と伊邪那美命を祀り

のちに多賀大社になりました。

そののち、天津日子根命は

三重県多度を開拓しました。

多度大社には天津日子根命が祀られています。


さて、邇邇芸命の兄の饒速日命は

河内のいかるがの峰の麓に行きました。

行く前に、邇邇芸命や饒速日は

ヒルメムチから天羽羽矢(あめのはばや)

アメノカチユキなど十種の神器など

同じものを授けられ

互いに先祖が兄弟である事を知り合うために

持たされたのです。


さて、宗像三女神は

筑紫に参りましたが8年かかって

帰ってまいりました。

ヒルメムチが言う様に外国人が

荒らしていたのでした。

天忍穂耳命が息子の邇邇芸命を総大将にして

飛騨の男女を連れて筑紫に向かいました。

筑紫が平定されたら大和で都を開く約束をして

雲を押し分け山から降ったのです。

これを『天孫降臨』といいます。


さて、岐阜の平野にやちまたがあり

そこへ、先に天下りしていた猿田彦命が

家来と共に船で迎えに来ていました。

そして一旦鈴鹿に降りたのです。


鈴鹿には猿田彦命がいますが

十五代淡上方様がこの地に

『山本高山土公命』

(やまもとたかやまつちのきみのみこと)が

派遣されましたが

この方の十八代目の方が猿田彦命なのです。


さて、鈴鹿の椿大神社には

山本高山土公命の御陵があります。

3月1日まいりました!







船を作る一族でしたから

舟形の祭事場になっています。

御船磐座と言って先祖らのお墓だと

伝わっているそうです。



歴史に残る聖地ですね。


さて、ここで準備をして

邇邇芸命たちは

難波→大三島(山下住命が)大山住命となり 

大山住命の娘、木花咲耶姫と結婚しました。

大三島で準備をして邇邇芸命は旅立ち

妻の木花咲耶姫は刈田で産屋がら間に合わずに

生まれたのがウガヤフキアエズの命です。


長い年月がたち

邇邇芸命は亡くなり

ウガヤフキアエズ命が九州平定をほぼ終わらせ 

神武天皇(サヌ命)に

約束通り大和に行く様に促され

船で旅立たれました。


そして神武天皇たちは

大和に向かいました。



さあ、次は大和に神武天皇が

着いてからのお話です。









マリア