名草戸畔は誅したと

日本書紀には書いてあった。


しかし、地元には

そういう伝説はなかったという。

小野田寛郎さんは

『名草戸畔』は誅されたわけではなく

最初、神武天皇らは和歌山に

上陸しようとしたが 

先住でいた、名草軍に撃退されたと聞いているそう。

しかたなく、熊野に回り込み

そちらから上陸し神武天皇らが勝った。

名草軍は、降伏しその後は

国前神社にも奉られるくらいだし

名草戸畔らは繋がっていったのではないだろうか。


名草山という山がありますが

そのあたりは湿地帯で

阿備の七原といって

そこに人が住み始めたそうです。

古くから先住として名草戸畔らがいたわけで

神武天皇らが尊重しなかったようには

思えない。


宇賀部神社が頭

杉尾神社が腹

千種神社が足を奉ったと

伝承があるようですが。



宇賀部神社が

名草戸畔の頭を祀ったと言われてますが

前述ルバング島から帰って来た

小野田寛郎さんの実家であり、

自分の先祖だと聞いていた名草戸畔の山に

奉ってあり、いつも祈っていたということです。



私もお参りにいきましたが

古墳的な山に神社がありました。

卑弥呼みたいな方があちこちにいて

その1人が

名草戸畔だったのかな

海から渡ってきて、部落をなして

住んでいたのかもしれません。


日本は南から来たルートもあります

黒潮がありますから

容易にこれたといいます。


日本の遺伝子ルートは3ルートあり



南方から来たのが

名草戸畔だったのかもと

思います。


和合しながら生きていた

地元の伝承を信じたいと思う私です。


和の国 日本だしね。







マリア