その18
「 目を疑った 神戸の惨状 と 大阪の平常 」の巻
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1995年 24歳 社会人2回生 尼崎市在住
震災3日後に会社に戻ると
「被害の大きい神戸の病院に
流動食など自社製品を 無償で届けろ」
との指示が出た
(会社はその後の契約を狙ったものだが
何にしてもピンチで苦しんでいる病院を
応援することは絶対に良いことだと思った)
新大阪の勤務先から国道2号線と43号線
西宮~芦屋の海岸方面の抜け道を通って
神戸を目指すが 大渋滞で全く進まない
マンホールが飛び出て信号は消えていて道路は亀裂だらけ
倒壊している阪神高速道路の下で長時間停滞している時は
余震でこの巨大コンクリートが倒れてくるかもしれない
ものすごい恐怖感があった
神戸市内まで結局7~8時間はかかっただろうか・・・
いつもは高速で30分の距離なのに・・・
神戸市中央区役所と
神戸市立西市民病院に行くのが精いっぱいだった
病院内はエレベーターは動かないので
患者さんをタンカで運んでいた
水は出てるのかな? 衛生面確保できてるのかな?
手術とかできてるのかな?
いろいろと心配しながら10ケース程の
病院食と名刺を渡してその場を後にした
なんだか自分の無力さを感じた・・・
神戸の一番の繁華街である三宮は
爆撃を受けたように崩壊し
あちこちで火災も起きていた
サイレンは鳴り響き ヘリも飛び交っていた
帰りの神戸市灘区~東灘区~芦屋~西宮の
国道2号線沿いの木造住宅はほぼ全壊していた
夢であってほしいと願うも
これは恐ろしい現実だった
東灘区に住んでいる会社の同期は
避難所の小学校から勤務しているが
運動場には次々と遺体が運ばれてきて
とてもツラいと言っていた
会社に戻ると22時を過ぎていた
精神的にクタクタだった
帰りの新大阪駅前バスターミナルでは
笑顔でスキーツアーに向かう行列がいた
その人たちに
「それどころやないやろっ!!」
と叫びたい気持ちになった
神戸の現実
と
大阪の現実
たった30㎞の距離で この現実の差
もう やりきれない思いでいっぱいだった
そんな悲しすぎる現状の中
養父から
いよいよあの指令が出されることに・・・
つづく
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