本朝美少年録 矢頭右衛門七  | そろって浄土に弥次喜多道中膝栗毛

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残り少ない人生、死ぬのは苦しいものか、どうも痴呆老人になって死んでいくようだ。お寺の坊さんに頼んでいるが。
残りの人生、東海道中膝栗毛の弥次喜多道中のように気楽に行けないものか。

本朝美少年録 矢頭右衛門七 

あの赤穂義士のひとりです 全然知らなかった いままで聞いたことのない変な名前の人物 右衛門に七なる字がついていますので 矢頭家の七番目の子供か思っていました

うえもんなな とか うえもんひち とか 呼ぶのかと思っていたら やとうえもしち とお呼びするのだという 赤穂四十七士のうちで 十代の若さで切腹 

赤穂四十七士のうち 十代は 大石主税の十五歳 矢頭右衛門七は十七歳 信じられない若さですよね それも忠臣蔵のなかで 唯一の美少年という

赤穂義士といえば 映画 浪曲 あるいは歌で 話題になっておりますが 矢頭右衛門七なんぞ 一度も聞いたことがありませんよ それが 絶世の美男子 いや 美少年なのですって どうしていままで話

題にならなかったのかしら あの大石主税 これは 大男で ブス いや男はブスといわないか
家老大石良雄の嫡男 主税 家老職であるからいわば重職の子 それに対して 右衛門七は 二十五





                      (花と散る矢頭右衛門七)


石人扶持のいわば最低の身分 それが 断絶後 逃げていく多くの赤穂藩士のなかで 若くして 名を後世まで残したのですから 立派ですよねえ

父も立派なら 母も立派 日頃から厳しい躾 昔の日本の列女の鏡 病の床にあって 主君の敵討ちを命じ また 母の励ましを受け 貧苦の生活に耐え それに 残された家族のことを思えば 恋だの 女

だの 浮いた話しは 許されなかったのでしょうねえ また 若輩なれば 勝手なまねは許されず ただ一党の後に必至についていくのみ   

大石良雄も 当然 若輩の右衛門七 それに後に残される家族のことを思いやって 討ち入りへの参加を止めたのであろうが 右衛門七は 激しく抗弁 討ち入りに参加するのだ 純真な少年

本書によれば 討ち入り後 一同 泉岳寺に着いたとき 一同のなかに 女がいるという噂が立ったと
いう 泉岳寺の坊主 坊主に若衆じゃないが 寺の坊主たち 色めきたって 寄り集まったというのだ

著者は それを「何と図ゝしい西瓜頭の行列」(p255)と言っておられます 本当に寺の坊主というのはどうしょうもない生き物ですよねえ

しかし 矢頭右衛門七(やとうえもひち) どんな人物か 
「赤穂藩断絶の際 赤穂浅野家勘定方の矢頭長助の子右衛門七はまだ家督前の部屋住みだったと





                          (水仙の花)


                  「やさしいはがき絵入門」市川 百色子 金園社 参考

いう 父は大石内蔵助のもとで藩政残務処理にあたり その後一家は 大坂に そこで父は 右衛門
七に 主君の仇討ちを命じて 病没 後に残された右衛門 討ち入りと家族の世話に苦労する 吉良

屋敷討ち入りでは 表門隊に属し奮戦 父の志を遂げた 三河岡崎藩 水野監物の芝中屋敷にお預け
となり、水野家家臣・杉源助の介錯で切腹した 享年18

母と妹3人は、この討入りの義挙で 右衛門七やその家族の苦難が世間に知られるようになり、親族
の矢頭庄左衛門に迎えられ奥州白河へ行くことができたという」(Wikipedia/矢頭教兼 2014/7/10

引用)
主君のおられる泉岳寺に 四十七士とともに葬られた 戒名は 刃擲振剣信士 (にんてきしんけんし

んし)

                            「本朝美少年録」 實吉達郎著 光風社出版 引用