「昭和天皇巡幸」 | 秘密基地ベーリン

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2015年10月からのベーリンでの生活も8年目に入りました。健康第一、ベーリン方丈庵の日々を綴ります。

「昭和天皇巡幸」 昭和天皇巡幸編纂委員会/創芸社

 

昭和天皇は、「今度の戦争で、国の領土を失い、国民のなかに多数の死傷者を出し、たいへんな災厄を受けた。この際、私としてはどうすればいいのかと考えたが、結局、広く地方を歩いて遺家族や引き揚げ者を慰め、励まし、元の姿に返すことが自分の任務であると思う。私の健康とか何とかは全然考えなくてもいい、その志を達するよう全力を挙げてこれを行ってほしい」と仰せになり巡幸が始まりました

 

昭和21年2月19日の神奈川県にはじまり、29年の北海道視察まで、ご視察日数165日、3万3千キロ、陛下が直接お言葉をかけられた人数だけでも2万人。

戦後間もないころは充分な宿泊施設もないことから、お召列車に泊まったり、風呂が準備できなくて盥で体を拭いただけの時もありました。

 

戦争や引き揚げで大切な家族を亡くした者を慰め、戦争孤児・引揚者・傷痍軍人たちを励まし、工場・学校を訪ね復興に力を尽くすよう激励。 復興の要となる、エルギー源の石炭の増産のため、常磐炭鉱(福島)・三池鉱業所三川鉱(福岡)では地下坑道奥深くに入り鉱夫を激励しました。

迎える国民は、各地の奉迎場や沿道で日の丸の小旗を振り「天皇陛下万歳」の声が自然発生的に巻き起こったと書かれています。

 

九州巡行は昭和24年5月から6月にかけて、23日間・ご視察箇所180余の強行軍。

地元熊本のところを見ると、天草でのエピソードが載っていました(P179)。 平素は沿道や次の訪問地の人に迷惑がかかるからと時間厳守されていた陛下ですが、下田に行く途中の本村開拓団の沿道で立っていた開拓団員の前を通り過ぎたあと、予定外に引き返してきて、「開拓事業は困難な仕事だが、食糧増産のためがんばってください」と励まされた。

外地から引き揚げた人に与える農地がないため、地元民さえ顧みられない土地に入植開墾し、農地に変えていく苦難の時にあって、直接、陛下から激励の言葉を拝したことは励ましと希望となったと、開拓団長は回顧しています。

<御製 かくのごと荒野が原に鋤をとる引揚びとをわれはわすれじ

 

巡幸メモには、大分県巡行で、阿南元陸相未亡人に会い、「その後、お変わりはありませんか、随分苦しんでしょうね」と御言葉をかけ、綾子夫人は「はい」と答え、ハンカチで顔を覆い、肩を震わせて嗚咽したと記しています(P194)

※阿南元陸相は、昭和4年に侍従武官になり(侍従長は鈴木貫太郎)、天皇からの信頼厚かった。終戦工作では昭和天皇の和平への強い意志と、陸軍による徹底抗戦の突き上げのなかで難しいかじ取りを迫られ、陸軍・右翼の暴発を押さえ「一死以て大罪を謝し奉る」と書き8月15日未明に割腹。阿南の自決で徹底抗戦や戦争継続の主張は止みました。

<辞世 大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE

 

沖縄は昭和47年に返還され、昭和天皇は沖縄訪問を強く希望されて、昭和62年秋季国体出席で実現されるはずでしたが病のため取りやめとなり、皇太子殿下(現 上皇陛下)が代理出席されました。

 <御製 思わざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさむつとめありしを

 

明治天皇は、日本各地を行幸され、学校を参観し優秀生徒を賞し、工場を訪ね人々の暮らしを見て産物の奨励を行い、藩がなくなり日本という国ができたことを目に見える形で国民に示されました。 

 https://ameblo.jp/himitu-bearing/entry-12134159355.html

上皇陛下・今上陛下は、東日本大震災などの被災地を慰問され、膝を折って一人一人の被災者を激励されています。

「昭和天皇巡幸」は、日本国と国民の安寧を祈ってくださっている皇室を護っていかなければならないと改めて感じさせる本でした。

 

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